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三.後宮へ(後編)

 立ち上がる蕙蘭(けいらん)を一瞥し、その女性は優雅な仕草で椅子に腰掛けた。鮮やかな色目の襖裙(おうくん)を纏い、背後に幾人もの女官を従えている。整った、凛々しい顔立ちの女性だった。


「皇太子妃様です」


 蕙蘭の脇に控えていた道案内の青年が、彼女の耳元で囁く。


(この方が皇太子妃様……。建国以来の名家のご出身で、卓越した書の腕前を誇ると評判の。確か、(ちょう)妃様と言ったかしら)


 目を瞬かせた蕙蘭は、左の腰に手を当て膝を屈める万福(ばんぷく)を行った。

 流れるような動作と、完璧なお辞儀の角度に、皇太子妃と呼ばれた女性は僅かに目を見張る。彼女は小さく微笑んだあと、鷹揚に告げた。


「お掛けなさいな、(しん)妃」

「ありがとうございます」


 するりと椅子に腰を下ろした蕙蘭に、趙皇太子妃は「早速だけれど」と口を開いた。時間が差し迫っていたのもあるのだろうが、彼女自身が無駄を嫌う性質なのだろう。

 趙妃は後宮の規則や妻としての心構え、皇帝后や妃たちとの接し方など、ここで必要だとされる知識を手短に解説してくれる。蕙蘭も神妙な顔で頷いていたが、睡魔で後宮の規則以外はほとんど頭に入ってこなかった。


(やばい、眠い……)


 込み上げる欠伸を何度も噛み殺していると、潤んだ目に何を思ったのか、趙妃は励ますように優しく頷いてくれる。

 バツの悪さに蕙蘭は目を泳がせた。


(侍女として、内廷の女官が一名ついてくれると言ってたわね。あとでその人に聞こう)


 やがて訓告を終え、部屋を出ていく皇太子妃を見送った後、蕙蘭は再び宦官に先導され別の建物へ向かった。この先に皇太子が待っているのだと言う。

 ついに夫となる人物と顔を合わせる──という高揚は、残念ながら一切湧かない。身体を締め付ける花嫁衣装を脱いで、さっさと寝具に飛び込みたいという気持ちばかりが、蕙蘭の思考を支配していた。

 そのせいか、確かに拝謁(はいえつ)したはずの皇太子の顔は、その後欠片も記憶に残っていなかった。

 皇帝の命で嫁いできたとは言え、蕙蘭は所詮側妃である。互いに盃を一杯、酒を酌み交わしたあとは、早々に退出を命じられた。

 冷たいその態度に、婚姻に夢を見ていた乙女であれば、泣きじゃくっていただろう。しかし蕙蘭は、内心で拳を握り締めていた。


(よっしゃ、これで夕餉をとったら寝られる!)


 外を見れば日は南天を通り過ぎ、傾き始めていた。







 盃を交わす儀が執り行われた部屋の隅に控えていた宦官は、蕙蘭(けいらん)を連れて、あちこち遠回りをしながら歩き回る。四半刻は掛かっただろうか、ようやく足を止めた宦官は、半分寝ながら後に続いていた蕙蘭に、とある建物群を指し示して言った。


「ここが、皇太子妃様や側妃の皆様がお住いになる区画です。一番大きな建物は皇太子妃様、その他の建物は側妃様方に宛てがわれています」


 それぞれの建物には大層な名前がついているはずだが、宦官は口にしなかった。僅か半日で、蕙蘭には言っても無駄だろうと学習したようだ。

 蕙蘭がぼんやりと彼を眺めていると、宮城に着いて以降ずっと道案内をしてくれた彼は、不意に恭しく頭を下げた。


(しん)妃様の側付きを拝命いたしました、準監(じゅんかん)(でい)保愚(ほうぐ)と申します。ご挨拶が遅れましたこと、申し訳ございません」


 蕙蘭は目を瞬かせる。

 愚さを保つ──とは随分な名だが、これは宦官になる際に与えられた嘲りの名だろう。

 男としての機能を捨て、最大の孝と見なされる子孫を残すことが出来なくなった彼らは、畜生にも劣る身と見なされ、人間として扱われない。ゆえにこのような尊厳のない名を敢えて名乗っている。

 蕙蘭と同世代だと思われるその宦官は、女性のように細く尖った(おとがい)と、透けるように白い滑らかな肌を持つが、目の色が左右で異なっている。赤にも見える明るい茶と、透き通った碧だ。

 彼女の視線に気付いたのか、泥準監は卑屈そうに微笑んだ。


「お察しの通り、私は異国の奴隷の出身です。不快でしたら片目は潰しましょうか?」

「……何を言っているの?」


 本気で理解出来ず、蕙蘭は首を傾げた。

 それを皮肉ととったのか、宦官は笑みを深める。


「失礼いたしました、両目ともですね」

「だから、違うってば。綺麗なのにやめてちょうだい。──どこの国なの? 詳しく聞いても良い?」


 勢い込んで詰め寄ってきた彼女に、泥準監は目を白黒させた。

 眠気が瞬時に吹き飛んだ蕙蘭は、構わずに次々と質問を繰り出していく。知らない国の話は、いつも蕙蘭を惹きつける。言葉や文化、食事の違いなど、知りたいことは幾つもあった。

 いつまでも部屋に入ってこない蕙蘭達を不審に思った侍女が、表に様子を見に出て来るまで、彼女は宦官を質問攻めにしていた。






 着替えに食事に湯浴みにと、常に侍女に世話をされる状況にまったく慣れないまま、蕙蘭(けいらん)は夜着に身を包んで初日からぐったりとしていた。

 深窓の令嬢であれば、これが当然の日常なのだろう。

 だが、物心ついてから食事の準備や家の清掃を使用人夫婦と手分けして行っていた蕙蘭には、いちいち他人に着いて回られるのは、ひどく気詰まりだった。


(疲れた。早く寝よう……)


 寝るにはまだまだ早い時間だが、蕙蘭には持ち込んだ書物に手を伸ばす気力も残っておらず、天蓋付の寝台によろよろと向かう。

 しかしその途中で、部屋の外から侍女の慌てた声が響いた。


「沈妃様、起きていらっしゃいますか?」

「……。はい」


 寝台からの誘惑を必死に振り切り、蕙蘭は何とか返事をする。焦りを隠せない様子で部屋に飛び込んできたのは、蕙蘭の侍女となった(よう)氏だ。

 彼女は今にも寝台に潜り込もうとしていた蕙蘭の傍に駆け寄り、必死の様子で訴えた。


「皇太子殿下が御身をお召しです。急ぎ支度を整えてください」

「それ、断っても良いやつ?」


 据わった目で答える蕙蘭に度肝を抜かれたように、楊氏は叫んだ。


「なりません!」

「……ですよねぇ」


 最早欠伸も隠さず、心底疲れた表情で蕙蘭は肩を竦める。そして音を立てて首を鳴らし、楊氏に頷いてみせた。


「分かりました。何をどうしたらいいのかさっぱりです。お手数ですが、手伝ってもらえますか?」


 楊氏は目を白黒させた後、急いで首を上下に動かした。


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