二.後宮へ(前編)
輿入れの準備は、当の本人たちが勢いに流されているうちに、着々と進んで行った。
皇帝の命による婚姻とのことで、普通であれば沈家のことなど見向きもしないような大商店の使いの者が、大量に邸に押し寄せてくる。
衣装の採寸、身に纏う宝飾品の意匠の確認、持ち込む調度品の選定。蕙蘭は手が空くとすぐに読書に没頭してしまうので、商人たちは都度、如松に確認を求めに来た。如松は彼らがまくし立てるままに頷き続けたが、最後に方々から差し出された勘定を見て、白目を剥いて気を失った。
「旦那様への報奨金を、蕙蘭様のお支度費用に充てると、内廷から文が届いたではないですか」
使用人に耳元で囁かれ、如松ははっと目を覚ます。
珍獣でも見るような目で父娘をまじまじと凝視する商人たちに愛想笑いを返し、如松は書面に目を落とした。これらの勘定は如松の署名を得たあと、内廷に渡ると聞かされる。彼は大人しく筆を持った。
一方、こうしてせっかく設えた嫁入り道具に蕙蘭は見向きもせず、持ち込む書物の選別で何日も徹夜をしていた。
「お願いですから、きちんと眠ってください、お嬢様」
「分かっているわ。……あっ、この本、こんなところにあったのね! 懐かしい」
荷造りさえ放り出し、埋もれていたかつての愛読書の頁を繰り出す始末であった。
そんなこんなで大小様々な騒動の末、なんとか迎えた晴れの日の朝。
蕙蘭は幾日も続いた寝不足で出来た隈を、使用人の老女に必死に白粉で塗りたくられていた。
「……濃すぎない?」
「……寝不足の酷いお顔ですからねぇ」
にっこりと笑われて、蕙蘭は押し黙った。大量の書を前に暴走した自覚はある。
老媼はてきぱきと、衣装の支度を整えた。内廷入りの際にだけ身に着ける、花嫁衣装だ。
大人しくされるがままになっていた蕙蘭は、最後に襟の合わせをポンと軽く叩かれて、目を瞬かせた。幼い頃、服を着せてもらう時に、彼女がいつもしていた仕草だった。蕙蘭は万感の思いで、母代わり──祖母のように接してきた老媼を見つめる。
彼女も目を潤ませて、蕙蘭とそっと抱擁を交わした。
手を引かれて母屋の客間に向かうと、父と、長年共に暮らしたもう一人の使用人である老翁が待っていた。目を細めて自身の姿に見入る父親に、蕙蘭は上品に膝を折り、頭を下げる。
「それでは父上、行ってまいります」
「ああ。──殿下によくお仕えするのだぞ」
「はい。父上もお元気で」
家族の縁が薄く、妻に先立たれて以降、後妻はおろか妾でさえ一人も囲わなかった父だ。また人数の減ってしまったこの邸で、彼はどう暮らすのだろう。一人娘である蕙蘭は、本来婿を取って、その婿が家を継ぐはずだった。この家もどうなるのか。
今になって思い至り、表情を曇らせた娘に、如松は力強く頷きかけた。
「私は大丈夫だよ。家のことも跡継ぎのことも、弟夫婦と話し合っている。お前は自分のことだけを考えなさい」
「父上……」
「くれぐれも、くれぐれも書に夢中になりすぎて、殿下や妃様方に不敬を働くなよ。頼むから」
むしろそれが一番の父の悩みの種のようだ。冷や汗を浮かべる父に、蕙蘭もにやりと笑い返した。
父にもう一度頭を下げ、脇に控えていた老翁の両手を取り笑顔を交わし合った蕙蘭は、やがて宮城からの迎えに案内されて、輿に乗り込んだ。
間もなく辿り着いた宮城の壮大さには、さすがの蕙蘭も目を見張った。
皇都と接した南端の門を潜り、輿は彼女をしずしずと奥へ運んでいく。
どの道を通って良いかは、身分によって厳格に定められているそうだ。父に聞いていた通り、輿は何度も進路を右に左に変えた。寝不足でふらついている蕙蘭は、その細かな動きに酔いかけ、開き直って目を瞑った。
(あ、ちょっと寝そう……)
一瞬意識が遠のきかけたところで、扉が外から叩かれる。蕙蘭ははっと息を飲んだ。
「扉を開けてもよろしいでしょうか」
「はい、どうぞ」
開扉の許可を求める声に、取り澄ました声で答えた蕙蘭は、口の端から涎が溢れかけていたことに気付く。一瞬だと思ったが、それなりに熟睡していたようだ。衣装を汚さないよう、馴れた手つきで涎を拭う。
そうしているうちに扉が音もなく開き、蕙蘭は言われるままに、窮屈な花嫁衣装に難儀しながら外へ降りた。輿入れの直前こそしおらしさも見せたが、彼女の本質はやはりどこまでも変わらない。
その後は黒衣の男性──恐らく宦官だろう──に誘導されるまま歩き続け、ようやく建物の一室に通された。そこで念入りな身体検査を受ける。
その時点で蕙蘭は辟易していたが、検査に立ち会っていた宦官に隣の建物に移動するよう言われ、溜息と共に従った。宦官がむっと顔を顰めるのが目に入る。
二人連れ立って、無言でしばし歩いたのち、指し示された部屋に入る。そのまま言われるがままに、用意されていた椅子に腰掛けて待っていると、カツカツと小気味の良い足音を立てて、一人の女性が部屋に入って来た。




