一.変わり者の貴族令嬢
大礼国第五代皇帝・蘇冽然。
稀代の名君として名高く、後世においてもなお、彼の施策を参考にする統治者は多い。
そして、彼の第二皇女である蘇昭瑶――字を澄蘭という――も、長年わだかまりのあった隣国との関係を改善した立役者として、広くその名を知られている。
だが、その皇女の母の名はほとんど知られていない。夫である冽然の治世を記した数多の書物の中の一冊に、「沈妃」の二文字があるだけだ。かの名君の時代を生きた老翁に話を聞いても、「皇帝の寵が薄く、病で孤独に亡くなった」ということだけが、辛うじて思い出されるのみ。
名前も遺らなかった孤独な側妃が、どのように生き、何を思っていたのか、知る者は誰もいない。
難関の官僚登用試験、英玄試を突破した者だけが身を置くことを許される国家の中枢、六部。
その一つである、法の制定と運用を司る刑部で、下から二番目の忠良の職を戴く沈如松は、重い足取りで自宅の前に帰り着いた。
(胃が痛い……)
皇帝のおわす宮城を北の中心に据え、そこから放射円状に広がる皇都の名は、授天府という。
その内の一角、中級官僚に割り振られた区域である皇都の南西部に、如松は小さな邸を構えていた。母屋は彼の主室と食堂、客間や使用人部屋、離れは一人娘の私室と蔵のみの、とても質素な造りである。年月を経て飴色になった扉を押し開け、敷居を跨ぐと、庭の掃き掃除をしていた老年の男が振り返った。
「おかえりなさいませ、旦那様」
「ああ、ただいま。……精が出るな」
ありがとうございます、と顔を皺だらけにして微笑む彼に、如松は迷うような素振りを見せてから問いかける。
「……娘は自室か?」
「そうだと思いますが……。あれに聞いて参りましょうか?」
『あれ』とは彼の老妻だ。
彼らは先代の頃から、この邸に仕えてくれている。使用人をほとんど置かないこの家で、夫の方は家令として家を切り盛りしながら力仕事も種々こなし、妻は家の内部を一手に引き受ける。長年連れ添う彼らの姿は、妻を若くして亡くした如松にとって、時に眩しく見えた。
そんな彼の心を支えてくれたのが、亡き妻との間の一粒種、愛娘の蕙蘭だった。
如松は今、とある願いをその娘から託されている。その件で、話さなければならないことがあった。
しばし考え込んだ如松は、家令の老翁に首を振った。
「悪いが、娘に客間に来るよう伝えてもらえるか? 私はこのままそこで待っていよう」
「承知しました」
請け負った家令が掃き集めていた葉をさっとまとめて、頭を下げて家の奥へ向かっていく。
如松は零れ出る溜息を抑えられず、沈鬱さを漂わせながら客間に向かった。
客間に腰を落ち着け、家令の翁が運んでくれた茶をゆっくりと味わっていると、程なく扉の向こうから娘の声がした。
「父上、お呼びでしょうか」
如松が入室を許可すると、開いた扉から少女が顔を覗かせる。如松が座るよう重々しく告げると、娘――蕙蘭は、音も立てずに美しい所作で腰を下ろした。しばし父娘は無言で目線を交わし合う。
(大きくなったな……)
父親の欲目かも知れないが、娘は真っ直ぐ、美しく育ってくれたと思う。
彼女は、大恋愛の末に結ばれ、短い蜜月の後に出産で命を落とした愛妻が、如松に残してくれた宝物だった。
亡き妻によく似た、知的さの宿る涼やかで切れ長の瞳に、細く通った鼻筋。抜けるように白い肌。ただし口元だけは父親似だと、使用人夫婦には言われている。妻の死後も如松は後妻を娶ることもなく、十六年間、父娘二人で支え合って生きてきた。
それゆえに、如松は憂鬱なのだ。
「……これを」
懐から取り出した巻子を、如松は蕙蘭に手渡す。
目を瞬かせる娘に頷きかけ、如松は告げた。
「読みなさい。許可はいただいている」
誰の、とは彼は言わなかった。父の様子から何かを察したのか、娘は眉根を寄せて紐を解き、現れた文面に見入る。
如松の胸がキュッと音を立てて痛んだ。
何かの間違いであってくれ──儚い願いと共に何度も読み込み、恐れ多いと命懸けで首を振ったが受け取らざるを得なかった短い文面は、すっかり暗記してしまっていた。
蕙蘭の目が、文末に辿り着いては何度も文の頭に戻りを繰り返している。その様を如松は胃の痛みと共に見守り続ける。
やがて彼女は動きを止め、おもむろに顔を上げた。
「……は?」
地を這うような声で呟き、蕙蘭は父親の顔を見上げた。彼の顔色はみるみるうちに蒼白になり、歯の根が合わなくなる。彼女は一、二度深呼吸をして、すっと口を開いた。
「……っはああああぁぁぁぁぁ!?」
響もすような大声を出し、蕙蘭は力を込めすぎて芯の折れた巻子を勢いよく投げ出した。巻子は上がり損なった花火のように、ひらひらと頼りなく地に落ちる。蕙蘭は震える手で父親の袍の円衿を掴み上げ、前後に激しく揺さぶった。
「これは! いったい! なんなのですか!」
「お、おまえ、陛下の聖旨をそのように……」
「私にとっては鼻紙以下です!」
それは、この国の第四代皇帝直々の勅旨だった。
長ったらしい前置きを無視すると、内容はこの通りだ。
『忠臣、沈如松の此度の功績により、その娘を、我が息子・皇太子冽然の側妃として嫁がせることとする』
「……何をやらかしたんですか父上! 私は外廷の司書労の女官になると! 申したでしょう! その件を掛け合ってくれと! 送り出したのは今朝でしょうに!」
「う、ぐ、蕙……苦し、」
「ゆくゆくは典部の長老を誑し込み、外廷に数多集められた稀覯本をすべて読破するという私の悲願を、どうしてくれるのです!!」
「きゅう」
激しく揺さぶられ続け、ネズミの鳴き声のような声を漏らしたのち、如松は白目を剥いた。話にならぬと蕙蘭がその手を離すと、如松は床に崩れ落ちて泡を吹く。
本人たちは気付いていなかったが、蕙蘭の怒声に驚いて馳せ参じた使用人夫婦が、こっそりと客間を覗き込んでいた。蕙蘭に全力で揺さぶられていた如松が床に伸びると、夫婦は顔を見合わせる。
「また旦那様、蕙蘭お嬢様を怒らせたのかぁ……」
「そっとしておきましょう。いつものことですし」
頷き合った使用人たちは、そっと客間を離れていった。
そんな周囲の様子には目もくれず、蕙蘭は顎に右手を添え、ひとり物思いに耽りながら部屋をぐるぐると歩き回る。父親の背中は二、三度踏んだ。
「ぐえ」
「辞退は……不敬罪に問われる? というかこんな木っ端中流官僚の娘が皇太子の側妃なんて、何やったのよ父上……。仮病……、ばれたらまずい……。実際に病にかかるか怪我……、だめだ書が読めなくなったら困る」
「ふぎゅ」
「でも……待って。皇太子の側妃? それならいつかは後宮入り? 皇帝の側妻なら、稀覯本は無理でも、それなりの本なら貸し出してもらえるんじゃ……」
「んぐ」
踏み潰された蛙のような呻き声に、ぱちくりと目を瞬き、蕙蘭は我に返った。床に俯せに転がり、全身をひくつかせている父親の顔近くに屈み込み、不思議そうに首を傾げる。
「なぜそんなところで寝ておられるのですか? 父上」
「……はっ」
息を吹き返し目を開いた如松は、慌てて顔を持ち上げる。至近距離にあった娘の顔を見上げ、如松は冷や汗を浮かべた。
「……蕙蘭?」
「ごねてもどうにもなりません。……受けましょう、この話」
「蕙蘭……!」
「見返りは、かねてからお願いしていた暁時代の稀覯本三冊で」
唇の両端を釣り上げ、蕙蘭はにんまりと楽しげに微笑む。
かつて彼が惚れ抜いた、亡き愛妻そっくりのその笑みに、如松はいつだって逆らえない。彼女は父が願った通りに、真っ直ぐ育ってくれた。真っ直ぐ過ぎて、書物のためなら全てを薙ぎ倒していくほどに。
娘の浮かべた笑みは、一般的に鬼女や悪女に例えられる類のものだが、如松には知る由もなかった。




