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第9話:最初の同志

新宿にある黒帝興業のオフィス。高史がドアをノックすると、中からくぐもった声がした。

部屋に入ると、最上川がデスクに座っていた。以前の、部下を怒鳴り散らしていた頃の威圧感は見る影もない。スーツは皺が寄り、目の下には深い隈が刻まれ、まるで魂が抜け落ちた抜け殻のようだった。デスクの隅には、一枚だけ写真立てが置かれている。そこに写る、屈託なく笑う少女の姿だけが、この澱んだ部屋の中で唯一の色彩を放っていた。


「……高史、君か」


高史の姿を認めた最上川は、一瞬、幽霊でも見たかのように目を見開いた。その顔に驚愕が走り、すぐに乾いた笑みが浮かぶ。彼は椅子から立ち上がると、仰々しく拍手をしながら高史に近づいた。


「こうして私の元にやってきたということは、君は上級国民(アッパー)イベントに成功したのか。これは驚きました。高史君、凄すぎです。無事帰れてよかったじゃないですか。おめでとう」


その声は空々しく、祝福の言葉は薄っぺらな仮面のように彼の表情に貼り付いていた。

彼は今まで高史の上級国民(アッパー)イベントからの生還を知らなかったのだろう。最上川にとって、超上級国民(アッパー)であるテスラの自殺と、下級国民(アンダー)の中でも特にダメな高史が、まるで結びついていなかったのだ。

高史ごときがテスラに害をなすなど、あり得ない。上級国民(アッパー)下級国民(アンダー)の絶対的な実力差を考えれば、それは極めて当たり前の思考だった。

最上川が高史の生還を自分の手柄のように語らないことから、彼が“福祉局員”への漏洩元である可能性は極めて低いと、高史は確信した。


高史はある事件の事前調査でその可能性は低いと考えていたが、それでも彼に会いに来た。黒帝グループという最初の接点に、味方が欲しかったからだ。


「生還者よ、それで、私に何か御用でしょうか?」


「いや、ちょっとお礼にと立ち寄りました。それとあの時、俺を誘ってくれた黒帝金融の坂本さんにもお礼を言いたいので、彼のことも聞きたくて」


「そうですか。坂本さんですが、あの後、行方不明になっているようですよ。大人だから働くなんて言っていたけど、一体どこでサボっているのやら」


「坂本さんが行方不明?」


「そうですよ。まあ、彼のことはいいじゃないか。それで、高史君は一体何の目的で、私に会いに来たのかな?」


「だから、お礼を言いに……」


高史の声を遮り、最上川はデスクに戻ると、娘の写真立てにそっと触れた。その指先が、かすかに震えている。彼の目が、獲物を探す獣のように鋭くなった。


「……あの日の翌日、東京セレブリティホテルの庭で、飛び降りをしたと思われる死体が発見されました。たしか、有名起業家のメロン・テスラ氏の。いやはや、たいした上級国民(アッパー)があの場所にいたものだと。びっくりじゃないですか。上級国民(アッパー)イベントからの生還者と、大物上級国民(アッパー)の自殺。偶然の一致にしては、出来すぎていませんか?」


「……どういう意味ですか?」


「私のような下級国民(アンダー)には何もわかりませんが、ひょっとすると、今回の上級国民イベントの主催者がテスラだったのでは?」


高史はそうだとも、違うとも答えることができなかった。


「図星、ですか。そして、その主催者が自殺し、恐らくは最後に一緒に居たであろう人間がここにいる。……私の知り合いに捜査一課の刑事がいますのでね。場合によっては善良な市民として警察に通報した方がいいかな、と思うわけですよ」


「最上川さん。あなた、いったい何が言いたい?」


「なぁ、高史。なんでわざわざ俺なんかに会いに来た?」

その問いは、単なる好奇心ではなかった。藁にもすがりたい、という必死の響きがあった。


「それは……そんなふうに言わないでほしいからです。一介のフリーターにそんなこと無理ですよ。全て最上川さんの妄想でしょう?」


「普通なら、私だってそう思いますよ。だが、今まで、上級国民(アッパー)イベントから帰ってきた奴はいない。しかし、お前はこうして帰ってきた! そして、その現場で上級国民(アッパー)が死んでいる! これはどう考えても怪しいじゃありませんか!」

最上川は鋭い三白眼で高史を睨みつけた。その瞳の奥には、狂気に近い光が宿っていた。


「今の口ぶりだと、これまでも何人も送り出していたんですね。そして今回、俺を陥れた。違いますか?」


「それが、どうした!」最上川は叫んだ。「馬鹿を陥れて何が悪い! どうせ、この世は上級国民(アッパー)の天下だ! 我々のような下級国民(アンダー)は、奴らのおこぼれを巡ってひたすら戦わされ、弱肉強食の世界を生きるしかない! すべては奴らの手の平の上さ! 俺がお前を陥れたからって、何も変わらない! ……このクソみたいな世界では、どうでもいいことだろ!」


最上川の言葉は諦観に満ちていたが、同時に、マグマのように煮えたぎる上級国民(アッパー)への激しい怒りが混じりあっていた。彼はデスクを拳で叩き、写真立てがガタンと音を立てて倒れる。その瞬間、彼の仮面が剥がれ落ちた。


「……あいつらは、人の命を何だと思ってるんだ……。娘の……沙苗の人生を、あんなゴミクズが……!」


その怒りの感情に、高史は静かに語りかける。


「最上川さん。もし、下級国民(アンダー)でも上級国民(アッパー)に勝つ方法があるとしたら、あなたなら、どうします? 殺される前に倒せる手段があるとしたら、どうします?」

高史は、あえて「殺される」という言葉を使った。


「勝てる……だと? 夢見てんじゃないよ。中二病かお前は」最上川は力なく笑った。「上級国民(アッパー)は政治、経済の中枢を占め、人を殺したくらいじゃ捕まりもしない。知っているか? この世界の富の半分を、たった8人の上級国民(アッパー)が持っていることを。そんな連中に、ゴミみたいな下級国民(アンダー)が挑んだところで……どうにもならない。誰だって腹が立つさ、俺だってそうだ! 娘を……あんな風にされて、腸が煮えくり返る思いだ! でもな、悔しいけど、我々には……どうにもできないんだよ!」


上級国民(アッパー)に目にもの見せてやりたいが、どうすることもできない。最上川の言葉には、愛する者を守れなかった父親の、血を吐くような無念さが溢れていた。


(やはり、こいつは俺と同じなんだ……)


上級国民(アッパー)イベントの帰還者は今まで誰も居なかったって、最上川さん、あんた、さっきそう言ったよな。でも、今ここに帰還者がいる」


その言葉は、暗闇に差し込む一筋の光だった。最上川の顔が、はっと上がった。


「……本当に、勝てるというのか? 上級国民(アッパー)に」


「俺には連中に対抗する秘密の手段がある。だからこうして戻ってきた。必ず勝てるとはいわない。でも、あんな連中にただ負けはしないさ」


高史は世界システム(ウヌス・ムンドゥス)のことは伝えていない。だが、それでも、上級国民(アッパー)に一矢報いる方法があるかもしれないという可能性は、最上川の心を掴むには十分だった。


「なあ、高史……!」


最上川は椅子から崩れ落ちるように床に膝をついた。今まで必死に抑えつけていた感情の堰が、完全に決壊した。


「お前が……お前が上級国民(アッパー)に勝てるというなら、一つ……たった一つだけ、頼みがあるんだ……!」


彼は倒れた写真立てを拾い上げ、娘の笑顔を震える指でなぞる。その肩は嗚咽で激しく揺れ、大の男が子供のように泣きじゃくっていた。


「もし、お前が本当に奴らに打ち勝つことができるなら……俺は、俺は……必ずお前に、一生感謝する……!」


最上川は、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔で、今まで秘めていた絶望と、復讐への渇望を、高史に語り始めた。

本日もお読みいただき、誠にありがとうございます。


さて、次回の更新ですが、週明け【9月15日(月)の24時】を予定しております。


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