第8話:安楽な日々の始まりと終わり
高史は、手に入れた力を使ってささやかに、そして安易に生きるための計画を実行することにした。
深夜のコンビニエンスストアの無機質な蛍光灯が、彼の青白い顔を照らし出す。彼は周囲を窺いながら、ATMの前に立った。心臓が妙に大きく、そしてゆっくりと脈打っている。これから行うのは、この世界の理を根底から覆す行為。その自覚が、彼の指先をわずかに震わせた。
試しに10万円ほど、世界システムから自分の口座に送金し、恐る恐るキャッシュカードを挿入する。機械的な操作音がやけに大きく響いた。
残高照会のボタンを押すと、画面には『100,200円』と表示されていた。
元々200円しか残高がなかった空っぽの口座に、確かにテスラから収奪した金の一部が入金されている。
(……できた。本当に、できてしまった)
安楽計画は、あまりにもあっけなく成功した。
ブラックバイトなどせずとも、指先一つで10万円が手に入る。夢にまで見た不労所得。自分だけのベーシックインカム。
凄まじい、あまりにも素晴らしい能力だ。高史の心は、恐怖と歓喜の狭間で激しく舞い上がった。
彼のステータスウインドウにはドルで天文学的な数字が表示されているが、日本円に換算すると1兆円以上の現金を保有している計算になる。10万円程度では、その数字は小数点以下が揺らぐことすらない。
今や、高史の経済力は下級国民レベルを遥かに超え、株券などの保有アイテムも含めれば世界有数の富豪レベルに達していた。しかし、あまりに金額が大きすぎて実感がわかず、特に嬉しいという感情よりも、まるで他人の銀行口座を覗いているかのような奇妙な非現実感だけが募った。
彼がわずか10万円しか送金しなかったのは、貧乏人の口座に突然大金が振り込まれれば、警察や税務署に睨まれるに違いない、という下級国民らしい矮小な懸念からだった。そもそも、そんな大金を一体何に使えばいいのかもわからなかった。
自分が持つ莫大な金額を考えると、高史は妙にソワソワして、もう一度辺りを見回し、店員が雑誌を整理しているのを確認すると、わずかに1000円だけ現金を出金して、カードをひったくるように抜き取り、震える手で財布の奥深くにしまい込んだ。
夜飯もまだだったことを思い出し、彼は500円のノリ弁を購入して自宅アパートへ逃げ帰った。
液晶の割れたテレビを見ながら、コンビニ弁当をかきこむ。
『高史様』
念話で、ゼタルが静かに話しかけてきた。
『高史様が今食べているノリ弁ですが、賞味期限が一昨日のようですが、おなか大丈夫ですか? 鑑定《真理の魔眼》によると、どうも製造日が偽装されているようです』
『なんだと? あのコンビニめ、下級国民だからってこんなもん売りつけやがって!』
『いっそのこと、あのコンビニの法人に敵対的買収をしかけて、高史様のご威光を示されるのはいかがでしょうか?』
ゼタルは、あくまで真剣に提案をしてきた。
『ご威光? 却下だ! そんな大ごとにしてどうする!』
高史は吐き捨てるように言った。
『俺様がついに実現した、ニートの千年王国を破壊するつもりか! ……それに、この程度なら余裕だ。むしろ、これくらい熟成されてる方がうまい』
『ニートの千年王国……??』
ゼタルには、その単語がすぐには理解できなかった。
高史は、そんな彼女の困惑など知る由もなく、黙々と期限切れの弁当をかきこみ続ける。
画面では、いつもの美人女性キャスターが眉をひそめながら、今日は少女連続失踪事件について報道していた。事件にはある有名俳優が関係しているかもしれないという疑惑話と、行方不明者数人の名前と写真が画面に映し出される。その瞬間、高史は何か引っかかるものを感じた。被害者の一人の苗字が、どこかで……。だが、液晶画面の亀裂がちょうどその名前を隠しており、はっきりと読み取ることはできなかった。
(まあ、また上級国民がロクでもない事をやらかしたんだろう)
さほど気にすることもなく弁当を完食し、適当に歯と顔を洗って、ベッドに転がり込んだ。
(素晴らしき不労生活。親ガチャ当たりなら是非やってみたかったダメ生活……)
強大な経済力に支えられたダメニートの千年王国が、今ここに誕生したのだ。
「……ちょっと奮発して、新型のゲーム機でも買っちゃおうかな」
そんな、あまりにもささやかな夢を口にした、その時だった。
高史が意識を集中して世界システムのウィンドウを立ち上げると、不意に一通のメールが、警告のように彼の視界を占拠した。
[君のようなイレギュラーは上級国民に狙われ殺されるだろう]
この不審なタイトルのメールの差出人は“福祉局員”とある。
本文を開いた高史は、その内容に全身の血が凍り付くのを感じた。
そこには、上級国民の有名人であるテスラをコマンドで殺害したこと、そしてその結果、君は上級国民にとって最も危険な存在となった、と書かれていた。今や第一級の暗殺対象であり、逃れる手段はただ一つ――殺される前に、上級国民を全て殺すことだ、と。
戦慄が背骨を駆け上った。
天国から地獄へ。ほんの数分前に夢見た安楽な生活は、幻のように消え去った。
このメールは一見、高史の味方を装った有益な情報提供にも見える。しかし、テスラを殺したことが完全にバレている。さらに、高史がチート能力使いである事も知られてしまっている。世界システム経由である以上、送り主は恐らく上級国民の誰かだ。
その上で、上級国民を殺せ、と唆してくる。何かの謀略か、上級国民同士の潰し合いに自分を駒として使おうとしているのか。底知れぬ不気味さが、この短いメールにはあった。
『ゼタル、ナビゲーターが情報を漏らす可能性は? 例えば、テスラに仕えていたウリエルとか』
『あり得ません』
『だとすると、テスラ殺害をなぜ知られた?』
『状況は不明ですが、相手が何らかの固有スキルを保有しているのかもしれません』
『そうか……。上級国民が、俺を狙っているのか』
『可能性は十分です。下級国民でありながら世界システムにアクセスできるのですから』
『だろうね。厄介な事になったもんだ』
ただのフリーター、いや、今の俺は完全無職なのに。
不労所得生活も束の間、借金王の次は権力者に命を狙われる世界の敵か。あまりの超出世に、高史の口から乾いた笑いが漏れた。
せっかく手に入れたこの能力で大人しく安楽に生きようと思った矢先にこれだ。上級国民の方は、高史を放っておいてはくれないらしい。
「……なんでだよ。なんで、こうなる」
誰に言うでもなく呟いた悪態は、カビ臭い部屋の空気に溶けて消えた。割れたテレビ画面が、彼のやるせない表情を無機質に映している。
『そういえば、高史様が先ほど口にされたニートとは「Not in Education, Employment, or Training」の略称ですね』
不意に、ゼタルの静かな声が念話で思考に割り込んでくる。
『「千年王国」という誇大な単語との結びつきに時間を要しましたが、上級国民がそのような状態を許容するはずがありません。彼らの華麗な生活を支える労働力が減少するため、社会の維持という観点から論理的にあり得ないかと』
……でも、俺一人ぐらいいいだろ。ニートでも!
そうは思ったが、この秘密を抱えた世界は、上級国民原理の世界は、仕組みとして俺の様な下級国民に安寧など許すはずがない。
ならば。
上級国民が、俺の「ニート千年王国」を認めないというのなら。
俺の、人生でたった一度くらい夢見たささやかな平穏を、脅かすというのなら。
いいだろう。
そもそも、この戦いは避けられなかったのだ。
どうせ妹のことを調べていれば、いずれ奴らとはぶつかる運命だった。
これは、最初から、生死をかけて俺がやらなきゃいけないことなんだ。
――ただ、その前に。ほんの少しだけ、休みたかった。
高史は、視線を彷徨わせ、部屋の隅にあるテレビに目をやった。
砕けた黒い画面に自分自身の顔が反射して映し出されていた。その顔には細かい亀裂が走り、自分自身が既に「壊れて」しまっているかのような錯覚にとらわれた。そう。俺は既に始めてしまっていたんだ。死線を超え、テスラを殺したあの夜から、何も知らないただの少年には決して戻れやしない。
「後戻りはできないんだ」
高史は自分に言い聞かせるようにつぶやいた。
やがて、高史はゆっくりと立ち上がる。
その小さな動作を合図にするかのように、彼の心の中で渦巻いていた混乱が、すうっと静まっていく。
恐怖も、怒りも、諦めも、全てが凪いだ湖の水面のように平坦になり、その底に、一つの冷たく硬い意志だけが姿を現した。
その瞳からは、少年らしい感傷の色は完全に消え失せていた。
今までロクに使っていなかった頭脳が、生存のため、そして――反逆のために、氷のように冷たく、そして高速で回転を始めた。
上級国民に自分が特定されたルートを考える。漏洩元として、まず怪しいのは……。
『テスラがホテルを借り切って人払いをしていたから、監視カメラの可能性は薄いでしょう。2人が会っていることを誰にも知られない。それがイベントの達成条件でしたから』
高史の思考を読んだように、ゼタルが補足する。
となると、残るは上級国民イベントに誘った張本人、バイト先の元上司の最上川と、黒帝金融の坂本か。
彼らは、テスラと高史が会っていたこと自体は知らないだろうが、テスラの自殺現場となったホテルに高史が行ったことは知っている。少し考えれば、高史に結びつくのではないか。
(……あの二人が、一番怪しい)
まずは、居場所のわかる最上川から当たってみようか。そう考えた、その瞬間。
「最上川……やっぱり変わった苗字だな。最上川……アッ! さっきの!」
高史の中で、バラバラだったパズルのピースが、電撃的な速度で一つに繋がった。
さっき、割れたテレビで見た少女失踪事件のニュース。はっきりと見えなかった被害者の名前。
彼はベッドから跳ね起きると、スマホを取り出し、震える指でニュースサイトを検索し始めた。
キーワードは――[最上川 失踪事件]だった。
本日もお読みいただき、誠にありがとうございます。




