第3話:悪魔の囁きと地獄への招待状
ガンガン! ドンドン!
翌朝、まだ薄暗い早朝。高史の意識は、暴力的なノックの音によって、浅い眠りの底から無理やり引きずり出された。安アパートの薄いドアが、まるで攻城兵器で打ち据えられているかのように、建物全体を揺るがす大音響を立てていた。
「……んだよ、朝っぱらから……」
隣の部屋の住人が、迷惑そうに顔を出す。だが、高史の部屋の前に立つ二人の男の姿を認めると、その顔から文句の色が消え、恐怖が浮かんだ。堅気の人間ではない。そう判断するや否や、文句一つ言わずにドアを閉め、鍵をかける音が響いた。
「いるのか、高史! まさか、夜逃げでもできると思ってないよな! さっさと出てこい! お前が救われる、唯一の方法を持って来てやったぞ!」
その声は、昨日、彼を地獄に突き落とした張本人――バイト先の上司、最上川のものだった。
高史は、もうどうにでもなれ、という自暴自棄な気持ちで、震える手でドアを開けた。その瞬間、最上川と、その隣に立つ、蛇のように粘つく視線を持つもう一人の男が、強引に室内へとなだれ込んできた。
「高史、おまえに朗報を持って来てやったぞ! それにしても……」
最上川は開口一番、そう言い放つと、部屋の中を侮蔑するように見回した。
「……汚ったねえ部屋だなぁ」
汚いから問題ないだろうとばかりに、二人は当たり前のように土足で四畳半の畳を踏み荒らす。その磨かれた革靴が、高史の最後の尊厳までをも踏みにじっていくようだった。
「最上川さん……いい話って、一体……?」
「それは今から、こちらにいらっしゃる、黒帝金融の坂本様が、直々に説明して下さる。有難く拝聴しろ」
最上川が芝居がかった仕草で道を開けると、坂本と名乗る男が、ぬらり、と一歩前に出た。
黒帝金融。それは、バイト先の黒帝興業も所属する、黒帝グループの金融部門。激しい取り立てと、非合法な貸付で悪評が絶えない闇の世界。どうせロクな話ではない。高史は、本能的に身構えた。
だが、坂本の口から紡がれた言葉は、彼の予想を遥かに超えるものだった。
「上田高史くん。上級国民の方々が、あなたを求めています。どうです、あなた、上級国民イベントに参加してみませんか?」
「……上級国民……イベント?」
高史は、思わず聞き返してしまった。その単語は、この薄汚い四畳半には、あまりにも不釣り合いで、まるで異世界の言葉のように響いた。
「はい。億万長者、芸能人、政治家……言わば、この世界の主役ともいえるセレブリティが開催する、秘密のイベントです。そして、あなた様は、何万分の一という奇跡的な確率で、その栄光の舞台に招待されたのです。とてつもない幸運だとは思いませんか?」
「オレのような……下級国民が、なぜ……?」
「簡単な話、ガス抜きですよ」坂本は、人を見下すような笑みを浮かべた。「たまには、我々下級国民の皆様にも、夢のようなチャンスを差し上げないと、不満がたまって暴発でも起こされかねない。無敵の人が増えてしまえば、上級国民の皆様も、安心して色々と楽しめなくなって困るわけです。そして、ラッキーでしたね。今回は、あなたがその栄光を掴むチャンスの対象に選ばれたのです」
高史は、その話がどうにも胡散臭いと思ったが、坂本の蛇のような瞳に射抜かれ、動けなかった。
「選ばれし者よ。これは、いわば上級国民への道、勝者への道。成功すれば、あなたの抱える1500万円の借金は帳消しの上、さらに大金が手に入るのですよ。それも、億円という単位の金がね」
「……本当に、借金がチャラになるのか?」
高史の口から、かすれた声が漏れた。
「はい、はい。もちろんです、高史くん!」
坂本は、満面の笑みで頷いた。しかし、その目は一切笑っていなかった。
「で、で、でも、リスクがあるでしょう? そんな都合のいい話が、下級国民の俺にあるわけがない。そうだ! あるはず無いんだ!」
慎重で、臆病な高史は、それを確認せずにはいられなかった。
「確かに、ノーリスクとは言えませんが、破格のリターンを考えれば、実にリーズナブルなリスクだと思いますよ。いわゆる、ローリスク・ハイリターンというやつです」
「ローリスクって……それって、まさか、いきなり死ぬとかじゃないですよね? 俺の命じゃ、億なんて金と釣り合うはずがないし……」
「まさか、まさか」坂本は大げさに手を振った。「黒帝グループは上場企業ですよ。このコンプライアンスの時代に、そんなことはあり得ません。我々が上から聞かされているのは、ですね。下級国民の方々が、上級国民に変身できる、またとない大チャンスイベントだという事だけです。まさに、安心安全なお話ですよ」
人生の辛酸を舐め尽くしてきた高史は、下級国民に、そんな美味しい話など絶対に回ってこないことを、骨の髄まで理解していた。胡散臭さ120%だ。闇バイトか、あるいはもっと悪質な何かの勧誘か。
「あれあれ、もしかすると、疑っています? この誠実なる私を、信用できませんか?」
坂本は、心底残念そうに肩をすくめてみせた。
「もちろん、この幸運を見送って、強制労働で借金を地道に返すという、堅実な選択肢も高史君にはございます。どちらをお選びいただいても、我々は一向にかまいません。もっとも、後者を選ばれた場合の完済は……そうですね、53年後の、75歳、といったところでしょうか。まあ、借金を一生かけて返済するのも、それは見事な大人の道でしょう。住宅ローンなどで、世の大人たちは皆がやっていることですしね」
75歳……まで……強制労働。
その言葉が、高史の脳天に、巨大な鉄槌となって振り下ろされた。
気が遠くなるような感覚。10代の自分が、人生の大半を、ただ借金を返すためだけの労働に拘束される。その未来を想像しただけで、彼はとてつもない恐怖に襲われた。
(嫌だ、嫌だ、嫌だ、絶対に嫌だ!)
巨額の借金を背負い続けるなんて、絶対に無理だ。逃げたい。この絶望から、絶対に逃げ出したい。
その心の叫びを、見透かしたかのように、今度は最上川が声を上げた。
「高史! 参加すれば借金はチャラだぞ! このまま一生、借金まみれの下級国民として、社会の底辺を這いずり回って過ごすのか! お前は、それでいいのか!?」
最上川の檄が、高史の最後の理性を吹き飛ばした。
「お前の、そのクソみてえな人生を変える、たった一度の大チャンスじゃないか! 参加しろ! 参加して、主役になれ! 上級国民への扉を、その手でこじ開けてこい!」
「最上川、さん……」
これほど胡散臭い話はないと、理性では分かっている。なのに、高史の目からは、意図せず涙が溢れていた。
このどうにもならない奴隷のような人生から抜け出すための、たった一つの逃げ道を、目の前に示されたような気がして。彼は、どうしようもなく嬉しかったのだ。
高ぶった感情が、彼の慎重さや臆病さを、濁流のように押し流していく。
今まで経験してきた、全てのダメな人生が、走馬灯のように脳裏をよぎる。
(本当は……本当は、やっぱり上級国民になりたい。俺だって、特別な存在になりたいんだ……!)
チャンスさえあれば、俺だって。
その千載一遇の好機が、今、目の前にあるのかもしれない。
「最上川さん……。本当は……俺も、上級国民になりたいです」
高史は、ポツリと、そう呟いた。
その瞬間、最上川と坂本の顔に、下劣な笑みが浮かんだのを、彼は見逃さなかった。
「そうか、そうか! なったらいいじゃないか、上級国民に! じゃあ、今すぐ決断しろ! この参加契約書に、ちゃちゃっとサインしてみせろ!」
最上川は、すかさず一枚の紙を高史に手渡すと、サインを促した。
高史は、彼に言われるがまま、得体のしれない契約書に、震える手でサインを終えた。
「サイン完了です。よくできました、高史くん」と坂本。
「おめでとう、高史! これは、上級国民への、輝かしい第一歩だぞ」
最上川はそう言うと、高史に参加衣装だという、重厚なスーツケースを差し出した。
「今夜23時、東京セレブリティホテル2021号室に集合だ。絶対に忘れるな。それと、このことは誰にも話してはいけない。なにしろ、秘密のイベントだからな。上級国民の方々は、プライベートを厳重に守っている。必ず、渡した衣装で変装して行くんだぞ」
坂本は、高史に開催場所と日時、注意事項を伝える。
「そうそう、高史。絶対に逃げるなよ」
最後に、最上川が、とどめを刺すように言った。
「今結んだ契約書の第2条第1項には、参加しない場合は違約金として、元金1500万円の500%を、無条件で差し出すとあるからな」
二人は、嵐のように去っていった。
一人、部屋に残された高史は、恐ろしい契約をしてしまったのではないかという、うすら寒いものを感じたが、もう逃げ道はない。
何があろうとも、行くしかないのだ。
彼は、自らにそう言い聞かせることしかできなかった。
◆
高史のアパートからの帰り道、最上川は、坂本に媚びへつらうように話しかけた。
「坂本様、あの馬鹿を、無事に放り込むことができましたな」
「上級国民なんて夢が一瞬でも見られるのなら、彼のような根っからの負け組にとっては、悪い話ではないでしょう。まあ、我々のような分別のある大人は、上級国民などという馬鹿げた夢は見ませんけどね。こうして、朝から地道に汗を流して働くのみですよ」
「もしかしたら、我々、チャンスをくれた恩人として、高史のやつに感謝されているかもしれませんな」
最上川は、嬉しそうに笑う。
「そうだとしたら、彼は、救いようのない本当の馬鹿と言えるでしょう」
「ところで坂本様、ヤツは、一体何をさせられるのですか?」
「そんなこと、私が知っているわけないでしょう。最上川さん、あなた、何年黒帝グループにいます? 我々のような末端レベルに、詳しい説明などあると思いますか。大人なら、理解しなさい」
「それも、そうですな。どうせ、二度と帰っては来られないだろうし、送り込みさえできれば、我々には全く関係のない話ですな」
二人の下卑た笑い声が、朝の冷たい路地に、虚しく響いていた。




