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第2話:失われた過去と腐った世界

競馬場を出た後、自分が何をしていたのか、高史はよく覚えていなかった。夕暮れのオレンジ色の光が西の空を染め上げ、家路につく人々の楽しげな声が遠くに聞こえる。その全てが、まるで自分とは無関係な、遠い世界の出来事のようだった。

彼は、魂が抜け落ちた抜け殻のように、ただ無気力に、見慣れた街をさまよう。


ぶらぶらと、当てもなく歩き続けた末、彼の思考は、たった一つの数字に収斂していく。

1500万。

どう考えても、そんな金、返せるわけがない。

その冷徹な事実を、彼は一人、夜の闇が迫る街角で、自分に言い聞かせ、納得させた。そして、ようやく重い足を引きずり、自宅アパートへと帰宅した。


部屋のドアを開けると、カビと湿気の匂いが、彼の帰りを待っていたかのようにむわりと立ち込める。電気もつけず、彼はまっすぐにベッドへと向かい、着の身着のまま、その上に倒れ込んだ。スプリングの軋む音が、静寂の中でやけに大きく響いた。


ジジ……ジジ……。


まただ。頭の中の、あの忌まわしいノイズが鳴り響いている。今日の出来事が、その音量をさらに増幅させているようだった。借金の絶望と、この不快な耳鳴りが共鳴し合い、彼の意識を苛む。眠ることさえ、許されない。


それにしても、と高史は思う。我ながら、ロクな人生じゃない。

親ガチャは最悪だった。飲んだくれの親父の怒声と暴力、そして、いつの間にか蒸発した母親の、ぼんやりとした記憶。それが、彼が思い描くことのできる、唯一の「家族」の風景だった。


それでも、たった一人の妹ために、彼は必死だった。高校を中退し、朝から晩までバイトを掛け持ちして、二人で、あの地獄のような家から逃げ出した。六畳一間の、陽の当たらないアパートでの生活。経済的には常にギリギリで、贅沢など夢のまた夢だったが、由梨の「お兄ちゃん、ありがとう」という笑顔があるだけで、彼は何でもできる気がした。あの頃が、人生で唯一、自分が世界の主人公であるかのように感じられた、輝いていた時間だったのかもしれない。


だが、そのささやかな幸せも、半年前、唐突に終わりを告げた。


妹は死んだ。上級国民(アッパー)が絡む、不可解な事件で。

その日から、彼の世界は色を失った。そして、この耳鳴りが始まった。まるで、壊れてしまった彼の心を嘲笑うかのように。集中ができず、仕事のミスを連発していた。このままでは、いつか取り返しのつかないミスを犯すかもしれない。そう思っていた矢先の、今回の失敗だった。


そして今や、借金1500万円のダメ人間。

年利30%。一年目の金利だけで、450万円。利息を返すだけで、年収の倍近い金額が必要になる。しかも、そのバイトもクビになり、年収はゼロだ。

借金の無限増殖ループ。完全に、人生は詰んでいる。

最初から負け組だった。そして、負け組はずっと負け組のまま、社会の底辺で朽ち果てていく。それが、この世界のルールなのだ。


……クソっ。


考えているだけで、胃が焼け付くようにキリキリと痛む。

高史は、重い体を起こすと、気晴らしにテレビをつけた。


画面には、きらびやかな世界の住人たちが、自分たちの幸福を、これでもかと見せつけていた。完璧な笑顔の美人キャスター、非の打ち所のないイケメン俳優、国民の税金で肥え太った脂ぎった政治家、そして、たった一人の命令で何十万という下級国民(アンダー)を戦地に送り込む、どこかの国の大統領。

彼らこそが、上級国民(アッパー)

高史が人生の全てを賭けても、決して届かない、天上の存在。


俺のような下級国民(アンダー)は、彼らに称賛の声を送り、彼らの豊かな生活を支えるためだけに存在する、ただの歯車、いや、奴隷なのだ。

それだけじゃない。ある国では、たった一人の大統領の指示で、多数の下級国民(アンダー)がゴミのように戦地で命を散らしている。そのニュースが、何の感情もなく、テロップで流れていく。

同じ人間なのに、なぜそんなことが可能なのか。高史には、まるで理解不能だった。


そう、あの凄惨な妹の事件も同じだ。彼女が上級国民(アッパー)に、虫けらのように簡単に殺されたことだって、全く理解できない。

でも、俺には何もできない。犯人も分からない。

ただ、生前の妹から聞いた、「今、上級国民(アッパー)の人と付き合ってるんだ。今度、紹介するね」という、嬉しそうな声だけが、呪いのように耳に残っている。


警察はまともに捜査をせず、証拠となるはずだった彼女のスマホは、なぜかデータが全て初期化された状態で返却された。

上級国民(アッパー)は逮捕されない。都市伝説だと思っていたが、それはこの国の、揺るぎない真実だったのだ。


この世は、悪夢だ。

いくらなんでも、名も無き一般人に対して、酷すぎる世界だ。

周囲の空気が、泥沼のようにねっとりと重くなり、息が苦しくなる。手足も動かせず、どこへも行けず、何もできずに、ただ沈んでいくだけ。そんな窒息しそうな圧迫感を、高史はずっと感じていた。


その時、テレビから、鈴を転がすような美しい声が聞こえた。

「このような格差は、是正しなければいけませんね」

高級ブランドのスーツに身を包んだ美人キャスターが、眉をひそめながら、すました顔でそう語った。


「くっ……お前に、何が分かるッ!」


高史は怒りのあまり、リモコンをテレビに投げつけた。ガシャン!という耳障りな音を立て、小さな液晶画面が蜘蛛の巣状に割れ、極彩色の光が傷口のように漏れ出す。

お前ら上級国民(アッパー)が、よくそんなことが言えるな。

妹を助けることもできず、お前の年収にも満たない1500万円の借金で、10代にしてもう人生が終わりそうな俺が、ここにいるのに。

俺がたとえこの部屋で朽ち果てようと、ニュースにもならず、お前のその美しい口から語られることも、決してないのだろう。


自分がどんどん嫌になる。自分を見捨てた世界に、ますます腹が立つ。

そして最後に高史は、自分がこの世界に対して何の影響力もない、ただの無力な下級国民(アンダー)だと、改めて感じずにはいられなかった。来る日も来る日も、その残酷な事実を、ひたすら突きつけられ、強要されているのだ。


(なんで俺は、上級国民(アッパー)じゃなく、こんな凡愚の下級国民(アンダー)に生まれてしまったんだ……)


中学の頃は、まだ夢を見ていた。自分は特別な存在かもしれない、と。

隠された力があって、まだ本気を出していないだけなんだ、と。

いわゆる、中二病だ。

だが、社会という名の現実は、そんな甘い幻想を容赦なく打ち砕いた。彼は特別なオンリーワンなんかじゃなく、ただの性能の悪い量産品に過ぎなかった。


しかし、上級国民(アッパー)の奴らは違う。奴らは現実を捻じ曲げ、中二病を現実のものとする。奴らこそ、大人になってもそれをやっている、永遠の中二病患者だ。

そして、俺たち下級国民(アンダー)は、奴らの中二病ごっこを支えるための、使い捨ての舞台装置。


(この世の全てを、何もかも……爆破してやりたい)


仄暗い破壊衝動が、彼の心の奥底で、マグマのように煮えたぎり始めた。

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