第14話:下級国民イベント
「お前は、志村拓海! なぜ、ここに!」
破壊されたドアの向こうから差し込む非常灯の赤い光が、侵入者のシルエットを不気味に浮かび上がらせる。最初に我に返り、その名を叫んだのは斎藤だった。刑事としての本能が、最悪の事態を即座に理解していた。
「ああ、刑事さんじゃないですか。あなた方を追跡していて正解でしたよ。おかげで、本命のイレギュラーに辿り着けました」
拓海は、まるで旧友に会ったかのような気軽さで言い放つ。彼の視線は、斎藤と最上川を通り越し、ただ一人、ちゃぶ台の奥に座る高史にだけ注がれていた。その目は、最高級の獲物を見つけた狩人のように、愉悦と残酷な好奇心に爛々と輝いている。
「この野郎、俺の娘を返せ!」
最上川が、獣のような唸り声を上げた。その声は、悲しみと憎悪が凝り固まった、魂そのものの叫びだった。
「あなたも、しつこい人ですね。下級国民の分際で」
拓海は心底うんざりしたように言うと、心の中で、冷徹に、そして絶対的な優越感をもって命じた。
『アルメン、“存在抹消”コマンド発動! イレギュラー以外を消せ』
『拓海、おかしいよ。発動できないんだ。どうなっているんだこれ。もしかして、結界……』
拓海のナビゲーター、アルメンの困惑した声が、彼の脳内に響く。存在抹消コマンドは、まるで分厚いガラスに阻まれたかのように霧散し、斎藤と最上川は消えることなく、そこに存在し続けていた。高史が、その絶対的なコマンドの発動を、より上位の権能で妨害していたのだ。彼の周りの空間が、わずかに陽炎のように揺らめいている。
『チッ、何かのアイテムの力か? 下級国民が持ち得ないはずの、レアな防御アイテムでも持っているのか? 面白い。実に面白い。だが、それで僕に勝てるとでも思ったか?』
拓海は獰猛な笑みを浮かべた。
『仕方がない。こちらもレアアイテム“神言強制”を使って、一気にケリをつけるぞ!』
『拓海、分かった。アイテム、神言強制発動!』
神言強制は、レアリティレベルSSのアイテム。コマンドポイント(CP)を10倍消費する代わりに、前提条件であるイベントのクリアを省略し、要イベントコマンドを一定時間、自由に発動できるという絶大な効力を持っていた。拓海の全身から、夜空の星々を凝縮したかのような、青白いオーラが奔流となって立ち上る。部屋の空気がビリビリと震え、圧力が急激に高まった。
『拓海、これで一定時間、イベントなしでコマンドを強制実行できるよ。でも、燃費が最悪だからね。普段からちゃんとイベントをこなしてスキルを増やしておけばいいのに』
アルメンが呆れたように忠告する。
『相手はクズの下級国民だ。CPなど、これで十分だろ』
神の如きオーラをまとった拓海は、悪魔のような笑みを浮かべた。彼はまず、邪魔な虫を払うかのように、斎藤に視線を向ける。
「刑事さん。こんな狭苦しい部屋で、僕の目の前に突っ立っていられると、邪魔なんだよ」
彼は、まるでゴミを払うかのように、斎藤に向かって指を鳴らした。その指先から、不可視の波動が放たれる。
「“収奪”――心臓、腎臓、肝臓!」
瞬間、斎藤の腹部が内側から破裂したかのような衝撃と共に、おびただしい量の血飛沫が壁に叩きつけられた。
「ぐ……ふっ……!?」
一体何が起こったのか、斎藤自身には全く理解できなかった。銃で撃たれたわけでも、刃物で刺されたわけでもない。だが、自らの体を貫く灼熱の激痛と、急速に失われていく生命力だけが、これが紛れもない現実であることを彼に告げていた。視界が急速に赤黒く染まり、意識が遠のいていく。
「斎藤刑事に何をしやがった! この野郎ォォッ!」
最上川が、隠し持っていた刃渡り30cmの出刃包丁を抜き放ち、拓海に襲い掛かった。その貌は、もはや人間のものではなかった。娘を奪われた父親の、復讐の鬼そのものだった。床を蹴るその一歩は、彼の全人生を賭けた一撃だった。
だが、その憎悪の刃が拓海に届くことはない。
「お前も、娘、娘と、うるさいんだよ」
拓海の冷たい声と共に、最上川の体もまた、見えない力によって内臓を抉られ、自らの血の海に崩れ落ちた。手から滑り落ちた出刃包丁が、カラン、と乾いた音を立てる。
「下級国民の女なんか、僕のオモチャだろうが。どう使おうが僕の勝手だし、死のうが生きようが、どうでもいいだろうが」
拓海は、床に転がる二人を虫ケラのように見下すと、ゆっくりと高史の方を向いた。部屋は、鉄錆の臭いと死の気配で満ちている。
「イレギュラー。お前には聞くことがある。一体どうやって、テスラを殺した?」
高史は何も答えず、ただ静かに拓海を見つめていた。彼の視界には、鑑定《真理の魔眼》によって映し出された拓海のステータスが、冷徹な情報として表示されている。
名前:志村拓海
LV:48
HP:990
CP:260
ステータス:良好
種族:上級国民
称号:人気俳優、イケメン、金持ちのボンボン
ドル:10,000,000
固有スキル:絶対隷従、鑑定《真理の魔眼》
(……まあ、こんなものか)
高史は、瀕死の状態で喘ぐ二人に、静かに語りかけた。
「最上川さん、斎藤さん。上級国民の力を、その身をもって体験したわけだが……これで、信じてもらえるか?」
「グフ……な、何なんだ……これは……。これが、お前の言う……例の力、なのか……」
「助けて……くれ……。娘の……復讐を……果たさずに……死ぬわけには……いかない……」
内臓を抜かれ、血の海に沈む二人。あと数分で、確実に絶命するだろう。
「いいだろう」
高史は、不敵な笑みを浮かべた。その笑みは、絶望の淵に咲く、黒い花のようだった。
「貴様たちの戦いは、まだ終わっていないのだから」
『ゼタル。“収奪”、心臓、腎臓、肝臓×2。斎藤と最上川のやつを、あのクズから取り返して』
『かしこまりました。高史様。コマンド実行します』
ゼタルのコマンド実行と共に、拓海の手元で輝いていた血塗られた光球――斎藤と最上川から奪われた生命そのものが、霧散し、二人の体へと嵐のように吸い込まれていく。彼らの腹部の傷が、まるで映像を逆再生するかのように瞬時に塞がり、失われたはずの生命力が、急速にその肉体へと戻っていく。
「な……!?」
その超常的な光景に、初めて拓海の顔から余裕が消えた。
「僕の収奪を、上書きしただと……!? あり得ない! 世界システムの理に反する!」
回復した斎藤と最上川が、血に濡れたまま、ふらりと立ち上がった。彼らの目には、恐怖と、そしてそれ以上に、目の前で起きている奇跡への畏敬の念が浮かんでいた。
「さて、拓海くん」
高史が、ゆっくりと立ち上がる。その瞬間、部屋の空気が変わった。これまで彼を覆っていた頼りなげな少年のオーラが消え去り、代わりに、底知れぬ威圧感が姿を現した。
「下級国民イベントへようこそ。これからが、本番だ」
高史がそう言って拍手をした瞬間、部屋全体が、揺り籠のようにわずかに浮遊する感覚があった。窓の外、そして破壊されたドアの向こうに見えていたはずの、ありふれたアパートの廊下や隣の建物の壁が、音もなく消失する。代わりに、そこには無数の幾何学模様が明滅する、無限の闇の空間が広がっていた。この四畳半の部屋だけが、物理法則から切り離され、異次元に浮かぶ孤島と化したのだ。
「狭い部屋だけど、俺のチート能力で部屋そのものを異相空間に転移させた。全ての音や衝撃は外部に漏れない。どんな高級マンションより防音対策は完璧だ。さぁ、存分にイベントを楽しもうじゃないか!」
『拓海、この部屋のみが存在する位相空間に閉じ込められているみたい! これだけのコマンドを使役できるなんて、下級国民のくせに、こいつは一体何者なの!? テスラのアイテムの能力なの!? 一見レベルは低いけど、気を付けた方がいいよ!』
アルメンの戦慄した声が、拓海の脳内に響く。しかし、その危機感は、彼の傲慢さの前ではまだ十分に伝わっていないようだった。
「ふざけやがって、下級国民イベントだと?」
「この四畳半の部屋、俺が住んでいる部屋だよ。いい部屋だろ。新宿区で家賃3万6千円。風呂はないし、便所は共同だけど。でも、俺はもうここを引っ越す。代わりに、君がここに住むといいよ。遠慮はいらない」
「こんな汚い場所に、人気俳優で上級国民の僕が住めるか! 貴様達とは住む世界が違うんだよ!」
「住めば都さ。そもそも、俺がこうなったのは君がいけないんだよ」
「なに?」
「安楽な不労生活をしたいだけだったのに、上級国民が殺しに来るっていうから、考え方を変えたんだ」
高史は、遠い目をして語った。
「お前の考えなど知るか! どうやったのかは知らんが、僕の能力を無力化するとは……テスラから奪ったアイテムでも使ったか! 下級国民ごときが、上級国民の聖なる力を犯すとは、万死に値する!」
拓海は、鑑定《真理の魔眼》で高史のステータスを再び確認するが、表示されるレベルは『4』のまま。偽装されていることに、彼はまだ気づいていない。
(レベル4程度の雑魚なら、いくらでも対処法はある!)
『アルメン、身体強化チートを使うぞ!』
『拓海、了解! いくよ、身体強化! イベント省略、剣豪覚醒! 魔剣実体化!』
拓海の手の中に、闇そのものを凝縮したかのような、禍々しい漆黒の剣が出現した。剣身からは、不吉な紫色のオーラがゆらめき、空間を歪ませている。
「こいつを僕に使わせるとはな、下級国民。お前のその生意気な体を、塵になるまで切り刻んでやる!」
「おお、なかなかいい感じじゃないか。魔剣とか。剣に名前は無いのかな? “グラム”とか“エクスカリバー”とかさ。齢17にしての遅咲き中二病デビュー戦には、持ってこいの相手だ」
「中二病だと……。下級国民のくせに、この僕を愚弄するか!」
「実力が桁違いの敵と遭遇すれば、上級国民だってただの中二病だよ。今までは、そんな敵がいなかっただけでさ」
「ふざけるなァァッ!」
拓海は怒りに身を任せ、魔剣を振りかざし、高史に斬りかかってきた。その一振りは、空間そのものを切り裂くほどの凄まじい速度と威力を持っていた。紫色の斬撃が、光の尾を引いて高史に迫る。
だが、高史は、まるで風に揺れる柳のように、最小限の動きでそれをかわす。
当たり前である。真のレベル差は、40以上あるのだから。
高史にとって、身体強化された拓海の剣撃など、スローモーション映像のように、その軌道がはっきりと見えていた。
斬撃が通り過ぎた背後の空間が、音もなく裂け、異次元の闇が覗いている。
しかし、高史の体には、傷一つついていなかった。
割れたテレビが、拓海の魔剣によって真っ二つに切り裂かれ、火花を散らして沈黙した。
次回、翌日深夜12時投稿予定。




