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第13話:反逆への序曲

新宿公園署の喫煙室は、紫煙と諦観、そして微かに漂う安物のコーヒーの香りで満ちていた。壁はヤニで黄ばみ、天井の隅には小さな蜘蛛の巣が張っている。斎藤元は、短くなった煙草をアルミ製の灰皿に押し付けながら、窓の外の灰色の空を眺めていた。降り続く小雨が、まるでこの街全体のやるせなさを洗い流そうとしているかのように、アスファルトを濡らしている。


彼の脳裏には、志村拓海のあの傲慢な顔が、焼き付いたようにこびりついて離れなかった。そして、あの言葉が、何度も何度も反響する。


(イレギュラー……一体、何を意味する言葉だ?)


拓海が自分たちを見て、“お前らがイレギュラーか”と言い放った時の、あの侮蔑と、その奥に隠されたわずかな警戒が入り混じった目。それは、特定の個人、あるいは集団を指す言葉であることは間違いなかった。だが、拓海の様子から察するに、彼自身もそれが誰なのか、まだ確信は持てていないようだった。


斎藤は、新しい煙草に火をつけた。深く吸い込んだ煙が、彼の肺を苛む。

この前の記者会見。あの場で拓海が自身を上級国民(アッパー)だと大々的に名乗ったこと。今までしたことがなかったのに、疑惑の渦中で突如として握手会を始めたこと。バラバラに見えた点と点が、今、斎藤の頭の中で一本の線で結ばれようとしていた。


(全ては、罠だ)


そうだ、全ては、その「イレギュラー」と呼ばれる謎の人物を誘い出すための、壮大な罠だったのだ。行動の辻褄が合う。拓海のような、生まれながらにして全てを手に入れた恵まれた上級国民(アッパー)が、そこまでして炙り出したかった存在……イレギュラー。一体、何者なんだ。おそらくは、彼の、あるいは上級国民(アッパー)全体の敵対者。


その瞬間、斎藤の脳裏に、一条の光が差し込んだ。

上級国民(アッパー)という、法さえも通用しない絶対的な壁に阻まれ、完全に途切れかけた少女失踪事件の真相。その深い闇を引き裂く唯一の糸を、このイレギュラーと呼ばれる謎の人物が握っているのではないか。


斎藤は、あのひょろりとした青年の顔を思い出していた。高史。

刑事としての長年の勘が、警鐘のように彼の頭の中で鳴り響いていた。彼こそが、イレギュラーなのではないのか、と。

以前に面会した時から、彼は何かを知っているのに、巧みに隠している。そんな印象だった。あの怯えたような態度は、あまりにも出来すぎていた。普通の少年ならば、もっと支離滅裂になるか、あるいは虚勢を張るはずだ。彼の恐怖は、まるで何度も練習を重ねた台本を読んでいるかのように、妙に整っていた。


(もう一度、あいつに会う必要がある)


斎藤は、固く決意を固めた。たとえその先に、自分の信じてきた「正義」が通用しない、異次元の闇が待ち受けていようとも。



一方で、最上川春樹は、自室の暗闇の中で、娘の遺影を見つめていた。小さな写真立ての中で、沙苗は屈託なく笑っている。その笑顔が、鋭い刃となって彼の心を抉る。斎藤に諭されて握手会の会場を後にしてからも、彼の心の中で燃え盛る復讐の炎は、少しも衰えることはなかった。むしろ、油を注がれたように、その勢いを増している。


(殺してやる……必ず、この手で……あいつを、八つ裂きにしてやる……!)


だが、彼には分っていた。

もし仮に斎藤に止められなかったとしても、屈強な警備員や、狂信的なファンたちに阻まれ、本懐を遂げるのは不可能だっただろう。あんなものは所詮、無力な男の蛮勇。己の命を無意味に散らすだけの、愚かで滑稽な自爆行為でしかない。あの熱狂の渦の中で、自分がいかに無力で、ちっぽけな存在であるかを、骨の髄まで思い知らされた。


上級国民(アッパー)に勝つには、どうすればいい……?)


答えは、一つしか思い浮かばなかった。

ただ一人、あの地獄の上級国民(アッパー)イベントから生還した少年、タカシ。

自分が陥れ、地獄へ突き落としたはずの、あの少年。だが今となっては、彼こそが唯一の希望だった。あいつの、あの得体の知れない何かに賭けるしかない。

最上川は、震える手でスマホを握りしめ、まるで何かに憑かれたようにアパートを飛び出した。


夕暮れの光が差し込む、高史のアパートの狭い廊下。そこで、二人の男はばったりと出くわした。


「斎藤さんも来たのか」

「最上川さん、あなたもか」


互いの目の中に、同じ決意の色を見た二人は、どちらからともなく頷き合うと、高史の部屋のドアをノックした。

ガチャリ、と頼りない音を立てて扉が開き、高史が顔を出す。彼は二人を見ても、特に驚いた様子はなかった。まるで、彼らが来ることを予期していたかのように。その瞳は、もはや怯えた少年のそれではなかった。全てを見通すかのような、静かで、冷徹な光を宿している。


「ああ、あんたらか。拓海の握手会、行ったんだろ。よく無事だったな」

「まあな。それで、お前の力をどうしても借りたくてな」

「そうか。取りあえず、狭い部屋だが入ってくれ」


高史は二人を招き入れると、ちゃぶ台に二人を座らせ、コンビニで買ってきたであろうペットボトルのお茶を無造作に置いた。そして、彼らに向き合うように、自身の定位置に座り込む。

高史が通路側の窓を開け放ったので、十二月の冷たい風が、暖房の効いていない部屋の中まで吹き込んできた。斎藤が寒さに身を縮め、窓を閉めてほしいと目で訴えるが、高史は「密になるから換気だ」と言って、取り合わなかった。その冷気は、物理的なものだけでなく、この部屋に漂う尋常ならざる緊張感を象徴しているようだった。


「ところで、なぜ、俺たちが拓海の握手会に行ったことをお前が知っている?」

斎藤が、単刀直入に切り出した。

「我々を尾行していたのか? 俺は一応、その道のプロだ。そんなヘマはしていないはずだが」


「尾行なんて、面倒なことはしない」

高史は静かに答えると、二人の目を真っ直ぐに見据えた。

「いいだろう。あんたたち二人の上級国民(アッパー)に対する覚悟は本物だ。そして、奴らに対抗するリスクを恐れない。だから俺は……あんたたちだけに、上級国民(アッパー)の秘密を教えよう」


上級国民(アッパー)の秘密だと?」

拓海の秘密ではなく、上級国民(アッパー)全体の秘密。その言葉に、斎藤は違和感を覚えた。


「それが、上級国民(アッパー)に対抗する手段なのか? 教えてくれ」

最上川が、前のめりになって食いつく。彼は上級国民(アッパー)イベントの存在を知っている分、斎藤よりも高史の言葉の意味を直感的に理解していた。これまで何人も送り込んだが、帰ってきた者は誰もいない。その地獄から生還したこの少年は、間違いなく“何か”を知っている。


上級国民(アッパー)はある種のチート能力を持っている」


「チートだと?」

「なんだって?」

二人の声が重なった。


「そう、チートだ。彼らはそのチート能力を利用して、この世界の中で絶対的な優位性を保つことができる。だから、芸能界やマスコミ、政財界などの要人は、全て上級国民(アッパー)が占めることになる」


「待て」斎藤が制した。「政財界の要人だから上級国民(アッパー)なのではなくて、最初からチート能力を持つ上級国民(アッパー)だから、要人になれたという意味か?」


「斎藤さんの言う通りだ。そして、少女達失踪事件は、拓海という上級国民(アッパー)が、そのチート能力を利用して少女達をこの世から消し去ったというのが真相だ。能力を使えば、血の一滴、髪の毛一本も残さずに、完全にこの世から消去することができるからな」


「……にわかには信じられんな。チートとは、具体的に何なんだ?」

胡散臭い、と斎藤の顔に書いてある。


「チートの名は世界システム(ウヌス・ムンドゥス)。その力は世界の因果律すら覆す。だけど、それが何なのかは俺にもわからない」


「高史、おまえ、頭は大丈夫か?」斎藤の声には、侮蔑と、わずかな憐れみが混じっていた。「お前が言っていることは、上級国民(アッパー)は魔法が使えます、と言っているのと同じだぞ」


「魔法……世界システム(ウヌス・ムンドゥス)には、確かにそういう捉え方もあるな。斎藤さんの言う通り、上級国民(アッパー)は魔法が使えると言ってしまってもいいかもしれない」


斎藤は苛立ちを隠さずに煙草を取り出すと、深く煙を吸い込んだ。

(妄想だ。完全な。やはり、無駄足だったか)


「あのな、魔法で少女達を消し去った、じゃ奴を逮捕できないんだよ。わかるか?」


「しかし、それが事実だ」高史は動じない。「そうだ、さっきの質問。なぜあんた達二人が、拓海の握手会に行ったことを俺が知っていたのか。それも、特定の相手の場所がわかるチートを使ったからだ」


「チートで俺たちの場所がわかっただと? いい加減な事を言いやがって。俺たちを尾行していただけだろう。こんな若造に付けられて全く気が付かないなんて、警視庁公安部にいた俺もヤキが回ったな」


「事実だ」

高史は、ただ繰り返した。


斎藤は、溜息と共に紫煙を高史の顔に吹きかけると、ついに席を立った。

「行くぞ、最上川さん。時間の無駄だ」

斎藤が、絶望と共に部屋の出口に向かい始めた、その時だった。


「信じられないか。そうだろうな」

高史の声が、部屋に響いた。その声は、もはや少年のものではなかった。幾多の修羅場を潜り抜けてきたかのような、冷徹な響きを帯びていた。

「だが、いまからそれを証明する」


その言葉が言い終わるか、終わらないかの刹那。


バガンッ!!!


凄まじい破壊音と共に、アパートの薄いドアが内側に向かって吹き飛んだ。木片と石膏ボードの粉塵が舞う中、逆光を背負って一人の男が立っていた。その完璧な貌には、獲物を見つけた捕食者のような、歪んだ笑みが浮かんでいる。


「イ・レ・ギュ・ラー! ビンゴだ。ついに見つけたぞ」


そこに立っていたのは、志村拓海だった。

高史が開け放っていた窓から、彼は全てを見ていたのだ。

反逆者たちの密会を。そして、自らを屠るための刃が研がれるのを。

運命の幕が、今、上がる。

本日もお読みいただき、誠にありがとうございます。

明日【24時】に更新いたします。

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