うわさの真実(上)
はじめまして、または、いつもお読みいただきありがとうございます。
この作品「うわさの真実」は、VR技術と古典文学が融合した近未来の図書館を舞台にした物語です。
UI/UXデザイナーの海野遥と、古典文学を愛するVTuber・星野ひかりの出会いから始まる、現代版父娘関係の物語を描きました。
マリンブルーのキャスケット帽に込められた想い、技術と人の心の関係、そして千年前の古典が現代人に教えてくれるもの——様々な要素を織り交ぜた、心温まる成長物語です。
全3部構成(上・中・下)の第1部となります。
最後までお付き合いいただけると嬉しいです。
それでは、図書館で起こる小さな奇跡の物語をお楽しみください。
「うわさの真実」
1.「図書館」
その図書館には、奇妙なうわさがあった。
新設された「ブックリウム」にある体験型アトラクション──VRゴーグル
をかけて古典文学の世界に入り込めるという施設について、利用者たちがこん
なことを囁いていた。
「あそこで体験すると、人生が変わる」
「ただのVRじゃない、何か違う」
「本当に古典の世界に行けるらしい」
そんな噂を聞いた二人の若者が……
マリンブルーのキャスケットをかぶった海野遥は、きれいに整えられた芝生
を貫くウォークウェイを汗を拭きながら歩いている。
父が最後に寄港した日も、今日と同じように陽炎が立つほど暑い日だった。
―思い出したくもないのに。
「潮風が恋しいなあ……」
声に出して呟いた瞬間、自分の言葉に驚いて立ち止まった。慌てて帽子を目深
にかぶり直し、冷たい石畳を踏みしめ、歩みを早めた。
図書館の正面入口では、朗読会を終えた親子連れが楽しそうに話している。
「やっぱり中村さんの朗読は素敵ね。あの温かい声、まるでお父さんみたい」
「そうね。でも最近実家に帰ってないから、父の声が恋しくて…… 」
遥の足が止まる。他人の会話なのに、胸の真ん中がえぐられるように痛い。
キャスケットの端を両手でぎゅっと握りしめ、足早に館内に逃げ込んだ。
図書館のエントランスに足を踏み入れると、ひやりとした空気とひのきの香
りが頬を撫でた。高い天井から差し込む自然光が、床の木目を美しく浮かび上
がらせている。
遥は小さく息を吸い込んだ。この空間設計には自分も関わっている。朗読会の
余韻が醸し出す、無邪気な喧騒とは裏腹に、巨大なスクリーンには、彼女が
心血を注いで作り上げた案内アバターたちが表示されていた。
(システムは順調に動いているわね)
職業的な満足感に浸っていると、静寂を破る甲高い声が響いた。
「今日も古典で心のビタミン補給~♪ みんなで千年前の恋にキュンキュン
しちゃお~」
振り返ると、自撮り棒を持った女性が配信をしていた。大きなバックパックを
背負い、陽気に話している。遥の眉間に皺が寄った。図書館という神聖な場所
で放送なんて。しかも私の作品を使って。
2.「ブックリウム」
既に一度、内覧会の時に訪れていた遥は、エントランスを通り抜け、迷わず
奥に進んだ。ブックリウム受付前にはパーテーションポールが並んでいるが閑
散としていた。
「15時に予約した、海野遥です」
受付アンドロイドにスマホの画面をかざすと、ピッと言う電子音が響いた。
「予約を確認しました。本日はメンテナンスが明けのため、予約は少なくなっ
ております」
とやり取りしていると、例のストリーマーがスッスッとなめらかな足運びで、
「今日も古典でときめいちゃお~♪」
と軽やかな足取りで近づいてきた。遥は
「まさか! あの配信者と一緒のツアー? 」
遥は露骨に嫌そうな顔をした。図書館で騒ぐような軽薄な人と、2時間も過ご
すことを考えると、心に浮かんだのは、逃げ出したいという衝動だった。
3.「わたしとあなた」
「わ、わたくし海野遥といいます。27歳、オーシャンテック株式会社の
UI/UX担当で、実は……こちらのブックリウムのアバターシステム設計に関
わらせていただいたんです」
名刺を出しながら、つい仕事の話になってしまう。
「UI/UX? あらー、みなさま~緊急放送ですよ~なんと本日は飛び入りゲ
ストが! えーっと、なんだっけ……海野さん?よろしくお願いしま~す♪
個人配信者の星野ひかりでーす。今日も古典でときめいちゃお~♪」
自撮り棒を向けながら、ひらひらと手を振る。
(何だこの人……真面目に話を聞く気あるの? こんな軽薄な人と2時間も……
技術的な話も通じない)
「す、すいません。星野さん。ちょ、ちょっと用事を思い出しまして……」
と帰ろうとすると、
「えー、一人で帰っちゃうの? せっかく二人きりなのに。 VRって初めてだ
から、エキスパートに教えてもらえたら心強いなあ」
「え? エキスパート? 私のこと? 」
帽子のツバを指先で少し上げて、星野ひかりの顔を見ると、他意のない無邪
気な笑顔をこちらに向けていた。
「ああ、まぁ、そこまで言うなら……少しだけ」
「うわぁ~うれしー。行こう行こう! 遥ちゃん! 1番の扉だよね! 」
「遥ちゃん? 」
「うん、私のことは『ひかりん』って呼んでね! 」
そう言いながら、星野ひかりは海野遥の腕を掴んで扉の中へと進む。する
と、二人はドーム状の広い空間に出た。
4.「ひかりの真実」
「えーっと、初見さん、コメントありがとうございます! 『万葉集の恋歌に
ついて教えて』ですね~」
星野ひかりは自撮り棒を片手に、急に真剣な表情になった。
海野遥は手にしていたVRゴーグルを止めて、星野ひかりを見つめた。さっき
までの軽薄な印象とは全く違い、静かで深く時が流れる錯覚に陥った。
「常連の方はお分かりですが、初見さんにはまず、『花に鳴く鶯、水に住む
かはづの声を聞けば、生きとし生けるもの……』で有名な、紀貫之の歌を
お伝えしたいの」
遥は息を呑んだ。彼女の声に込められた深い愛情と知識に、心を揺さぶられた
のだ。仕事柄たくさんの配信を見る機会があったが、これほど人の心を動かす
コンテンツがあるとは知らなかった。
「つまりこれは、鶯も蛙も、この世に生きているものはみんな歌を詠んでいる
の。恋も、悲しみも、喜びも、全部歌になる。その歌が、言葉が、千年の時
を超えて私たちを救ってくれるの。お忘れなく♪ 」
(この人……本当に古典を愛してる)
「星野さん、そんな素晴らしいコンテンツを持って…… 」
と話しかけようとした途端、
「rc2758さま。寛永通宝・銀! ありがとうございます♪ 松の舞をばお礼に
ヒャラリィ~、松の葉に~月は…… 」
といきなり踊り出した。
(前言撤回! 何よ、この子違いすぎる。やっぱり帰ろうかしら)
あっけにとられ、悪態をつきそうになる遥だったが、
「あっ! 」
「えっ? 星野さん? 」
ひかりは荷物の重さに振り回され、派手に転んだ。
「きゃー、痛っ!」
すかさず駆け寄った遥は、倒れ込んだ彼女の自撮り棒を拾い、散らばる持ち物
を見た。目で追えないほど早いコメント欄が映し出された、もう一つの携帯、
そしてかなり重そうなノートパソコンが、バックパックから出て開いていた。
「星野さん。大丈夫? 」
「足首ギクって! ひーっ、ビックリしたぁ~ 」
ノートPCを拾い上げた遥は固まった。そこには星野ひかりとは全く違う、ピ
ンク髪の美少女アバターが映っていた。
「あなた、顔出し配信者じゃなくて、VTuberなの? なんで? だからこん
なに大荷物なのね? 」
「ああ、ええっと、その……」
ひかりは配信で音声がのらないように小声で囁いた。
「見た目に自信がなくて……それに顔バレは色々怖いので……」
「ああ、そうなのね……十分見た目は可愛いと思うけど、そういう問題でもな
いのね。こんなに機材抱えて、すごい根性ね」
遥は機材の重さを実感しながら、改めてひかりを見直した。古典への深い愛
情、そして一人でこれだけの機材を運んでまで活動を続ける情熱。
「あ、あの……もしよろしければ、『ひかりん』って呼ばせてもらっても?」
遥もつられたのか、恥ずかしそうに小声で言った。
「あ、『ひかりん』って呼んでくれましたね♪ 遥ちゃん! 」
ひかりの満面の笑顔を見て、遥は深く帽子をかぶり直した。言わなければ良
かったと後悔しながらも、お互いに微笑み合った。
「うわさの真実(上)」をお読みいただき、ありがとうございました。
海野遥と星野ひかりの出会い、そしてVTuberであることが判明するまでを描いた第1部、いかがでしたでしょうか。
遥のキャスケット帽への想い、ひかりの古典への情熱、そして二人の関係性の変化を丁寧に描こうと心がけました。特に、外見と内面のギャップ、技術者のプライド、そして人と人とのつながりの大切さをテーマに据えています。
次回(中)では、いよいよVR古典文学体験が本格始動します。システムの不具合に直面した遥の心境変化、そして古典『イリアス』『オデュッセイア』を通じた二人の冒険をお楽しみに。
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引き続き、この物語にお付き合いいただけると幸いです。
ありがとうございました。