Unbelieversーアンビリーバーズー
アキアカネが飛び交い始めた空が夕焼けに染まる。西日が射すこの部屋では少女がひとり、絆創膏と格闘していた。
「はぁ…今日も散々だったな」
ベッドの上で右膝を立てながら遠い目をする。そのかかとには真っ赤な靴擦れができていた。ちょっと履いてみようか、といった調子で普段のスニーカーの代わりにローファーで登校したらこの有り様だ。
ふと手元に意識を戻し、絆創膏を貼るべく大きく覗き込む。
…その時。
シャーーッ!!
ローテーブルの脚に立てかけていたはずのスクールバックがひとりでに滑っていった。少女は思わずビクリと震える。
「びっ……くりしたぁ」
彼女の周りではたまに、いや…しょっちゅうこういうことが起こる。
それだけならまだ良かった。
夏休みが明けるタイミングで転校した彼女は原因不明の怪奇現象に悩まされ、さらにこの不気味な現象のせいでクラスメイトから避けられるようになったのだ。
今では心霊現象うんぬん関係なしに無視される。彼女が教室へ入るときも、歩いても走っても、目を見ても…いないもののように。学校はもう彼女が楽しめる場所ではなかった。
ー 放課後。逃げるようにして教室を後にした少女がまっすぐ家へ帰ることはなく。
道中の野良猫としばらく戯れた後、意味もなく公園へ行ってブランコに揺られる。一番高いところでほんの少し止まる時間が気持ちいい。重心を思いっきり下げ、足を大きく振って漕ぎ出す。頂点から落ちる瞬間の浮遊感に合わせて心臓が跳ね、口角が上がる。
ふと、涙が溢れた。
「あ、あれ…」
予想外なことだったので慌てて漕ぐのをやめて目を擦る。
そうだ。家に帰りたくないんだ。
いつも電気が消えているリビング。奥の寝室に母が眠っているのを気配で感じながら、息を殺して2階へいく。自分の部屋が与えられてからはそこが彼女の安全地帯になった。
彼女の母は少女を確かに愛していた。だがその愛情がまっすぐ届くには母の言動と少女の感受性が歪みすぎていた。始まりはいつも何気ないお小言のはずなのに、いつの間にか生まれてきたことを必死に謝っている。
少女の母は精神を病んでいて、目の前が真っ赤になることが多かった。ふらつく体で家事をこなす日もあれば、学校から帰ってきた少女を激怒にかられて怒鳴りつけたりする日もあった。少女にとって、そんな日の家は大きな足音と乱雑な生活音が響いて地獄的だ。
幼少期からこのような環境に晒された少女は、それを目の当たりにすると体が硬直してしまってうまく対処できない。父が帰ると幾分もマシになるので、こうして無意識に帰る時間を遅らせる。
何となく沈んだ気持ちで辺りを見回すと随分暗くなっていた。そばの街灯が明るく感じられる。だが彼女はもう少しだけこのままでいることにした。
隣のブランコが無風の中静かに揺れているのはそのまま。
昼下がりの教室。少女は少し落ち込んでいた。
(朝に出したはずなのに…)
今日提出の課題が出ていない、と呼び出しをくらったのだ。提出した記憶がはっきりとあったので言葉に詰まる少女を見て、見苦しく黙り込んでやり過ごそうとしているように思ったのだろう。担当教員は責めるような口調で”なんで出さなかったんだ”と言った。
今度は本当に黙り込む。まず、出していない前提で話が進んでいる状況に訴えなければ。かといって、”出しましたよ?”と押し通すのはもっと見苦しいのではないか?実際、提出できていない原因がわからない以上証明のしようがない。
少女は洪水のような思考を飲み込んで、小さく頭を下げた。
「ごめんなさい、出すの忘れてました。今日中にやって放課後に出してもよろしいですか」
極めて申し訳なさそうな表情をして見せると、面倒臭いのか教師はそれ以上追求することなく少女を解放した。
そして今。よりにもよってレポート課題をやり直す羽目になった少女は、萎れた様子で筆を進める。教室は昼休みの最中だ。
「じゃぁ菓子パスタートぉ!!」
クラスの女の子が何人か集まって、わいわいと話し始める。思いつきで始まったのだろう、菓子を持ち寄ってみんなで食べるようだ。
「きゃーーーそのグミ気になってたやつぅ!!ちょおだい」
「そのクッキーまずそー!いくらすんの?高ぇーーー」
「ちょっと!おんなじやつ買ってんじゃんウチら!!!」
楽しそうだ。少し声が大きくてびくびくしてしまうが、今は課題に集中しなければ。
「ねぇ!戸田くんも食べる?」
「えぇ…いや、遠慮するよ。いらない」
(さすがギャル。男の子にも分けてあげるんだ、すごいなぁ)
「ね、漣さん」
(にしてもこの課題、面倒くさいな。内容もあんまり覚えてなくて再現できないし…)
「さーざーなーみーさんっ」
軽く肩を叩かれ名前を呼ばれたので、少女は弾かれたように顔を上げた。目の前に、戸田と呼ばれた少年が立っている。
「もしかして、課題やり忘れてたの?」
「はぁ…えっと、なんで…?」
例えばなぜ、このタイミングで自分を気にかけるのか。なぜ、課題のやり忘れなんかを気遣うのか。
「いや僕、教科担当の係だからさ、朝から出しに行ったんだよ。数えてみたら漣さんの分だけないからあの子たちに聞いてみたら”まだ来てない”って言われてね」
「……そっか。あ、そうそう…実はやってなくてね」
ヘラヘラと愛想笑いをしながら涙を堪える。後方で戯れあう彼女たちの声が凶器性を帯びる。”彼女たちの誰かが、私の課題を抜き取ったのかもしれない”という可能性を知る。怒りに胸が震えるけれど、もしかしたら間違いかもしれない。もしかしたら本当に、自分が出し忘れただけなのかもしれない。
声も出せないまま彼女の心が深く抉れていく。
無事課題を提出できた少女は、職員室から誰もいない教室へと戻った。
「やっぱあいつ、キモいね」
「それな…ほんと何あいつ」
不穏な空気を感じた少女はすぐにでも立ち去りたかったが、あいにくその声たちは廊下から聞こえてくるので教室から出られない。
「まじ、死んじゃえばいいのに」
ー 漣 羽仁華…彼女の名前。聞こえてくる前に、彼女は走り出していた。心臓の音がうるさすぎて頭が痛み出す。奴らの目の前を走り抜けてしまった気がするが振り返る余裕がない。
屋上へ走る。もう何も考えたくない…
「ごめんなさい…お母さん…お父さん…」
”だめだ、飛んじゃだめだ”
”だけどそうしたい”
”自分のためにそうしたい”
フラストレーションが爆発してしまい、少女はパニック状態に陥っていた。高い柵を越え、震える手で掴みながら見下ろす。
「ううう……」
声をあげて泣いていた。どうしていいのかわからなかった。
すくむ足に力を入れて校舎の縁をとらえる。フェンスを掴む右手に汗が滲む。
ズルっ…
少女の顔から血の気が引いていく。わざとではなく、不意に力が抜けたせいでフェンスを離してしまったのだ。取り返しのつかない状況に思考が停止する。
(本当に死んじゃうっ…!)
その刹那、彼女の体がぐいっと引っ張られた。
右手首が掴まれている。急いで見てみるが手首は何ともなく、自分の右手はすでにフェンスを掴んでいる。しかし、誰が自分を助けたのかすぐに分かってしまった。
フェンスのその先に、ちょうど彼女の右手から両手を離した格好の少年が立っていた。青白い輪郭線でかろうじてその姿が捉えられるほどの透き通った額を、ふぅっと言いながら拭っている。
『危なかった。君にこんなところで死んでもらっちゃ困るよ…』
話しかけるふうでもなく、ただ呟く。
『…僕が成仏できるように手伝ってもらうんだから』
少女はまた緊張する。今度は別の意味で血の気が引いていく。
(ひとまず、見なかったふり…)
少女はそっと俯き、フェンスを再度越える。
一言も発さないまま、珍しくまっすぐに帰宅した。
少女は見えないふりを徹底した。それでも少年の幽霊はお構いなしについて回る。
『もう何年もここに縛られてるけど、いじめってのは無くならないもんだねぇ』
帰りのホームルームの途中そばの窓から校庭を見下ろしていると、思い出したような呟きが聞こえた。そっと目線だけを上にやると、少年の幽霊が窓のサッシの上に立って外を眺めている。
『君には不思議な魅力があるから、人目を引くんだろうね』
少女に自分の声は届かない。そういう前提で彼は話している。
(不思議な魅力…)
抽象的だが、そんな風に言われると心臓がトクンと鳴る。まるで自分は特別だと言われているようで。
(このひと、よく見たら…)
興味本位で少年のことを見つめてしまう。
「…あっ」
少年が不意にこちらを向いたので、慌てて目を逸らす。ずっと昔からこの学校に縛られてきたというこの幽霊少年は、驚くほど端正な顔立ちをしていた…普段は透けていてわかりにくいが。
依然として彼女には少年と意思疎通を試みるための勇気がなかった。それどころか、飛び降り未遂をしたあの日から、家でも学校でも息を潜めるようにして生きている。
居場所がない。
そんな彼女にとって、常にそこにいる幽霊の少年は心の拠り所になりつつあった。だからこそ、この関係を変えたいと思えなかったのだ。話しかけたあと、彼がいなくなってしまうのが怖かった。
ホームルームが終わり、人知れず教室を出る少女。これまでは少し寂しい気持ちを抱えていたが、今は何ともない。少年がきっと憑いているから。
「あ、ネコ」
久々に現れた野良猫が、甘えるように鳴いた。次の瞬間、その瞳孔がシュッと細まって、何かを見定める。
『ま、まさか』
んにゃっ!と爪を剥き出しに飛びかかってくるので、少女は驚いて後ずさる。しかし、狙いは彼女ではなかったようだ。
『おおおおおっ!やめ、やめろぉ!!』
ぷかぷかと空中に逃げる少年を、ネコの爪が追いかける。ついに引っかけられて、びょーんと伸びた…気がした。
「ぷっ…はは!」
思わず吹き出してしまった。少年が、驚いた顔でこちらを見る。
「か、かわいいねぇ…ネコちゃん」
少女はごく自然にネコを見据え、その背中を撫でた。
『そ、そぉ〜だよね〜…焦った…』
それはこっちの台詞だわ、と内心呟いてから、家へ帰る。
「ただいま」
玄関で小さく言うと、いつもとは違ってリビングが明るいことに気付く。
母がいた。無表情に座っている。視線の先のテレビには、よく知らない中華ドラマが流れていた。
「あ…ただいま」
横を通りすぎながら挨拶する。返事の代わりに、一瞥を投げかけられる。
少年の視点から客観的に見れば、何かを訴えている、と感じられるような視線だったが、少女はその瞳に底知れぬ怒りや憎しみを汲み取るのだった。
自室に戻っても少女は落ち込んだまま。ベッドでうつ伏せになると、望んでもいないのに今日一日がフラッシュバックする。
周りの視線につかないように息を殺して過ごした。誰かと目を合わせないようにずっと俯いた。
これからもずっとこうやって生きていくのだろうか。何か夢中になれるものを見つけて、脇目もふらず一筋に生きていけたらいいのに。
前向きになれない…自分自身に興味が湧かない…いったいどこに意味を見出せばいい。やはりあの時飛んでおけばよかった、とは言うけれど。
でも…
「はぁ…生きるのめんどくさい。」
言ってしまったあとで、とんでもない失言をしてしまったと思った。少年の体がぴくりと揺れたのだ。
『そんなこと…』
”言うべきじゃない”という言葉があとに続く、と少女は身構える。
『言いたくなる気持ちもわかるなぁ……』
自分の体から、ふっと力が抜けた。同意されるとは思ってもみなかったので、ただ同調しているだけなのかもしれないと疑念を抱く。
『でも君は死んでいないね。君は、死ねないんだ。死ねない理由を知っているから』
壁のほうを向きながら、そっと耳を傾けた。
『君は、君のママやクラスメイトのことが好きじゃないけれど、でも嫌いじゃない。彼らのことを思うと屋上から飛び降りるなんてとてもできない。』
『きっと生きる理由なんてそんなことでいいんだ。死ねないから生きる。将来のことを考えて足踏みしているくらいなら、明日生きるために生きてもいいと思う。そのひとときが、青春なんだから。』
(明日のために生きる…)
『って、偉そーなこと言いながら僕、自分が死んじゃった理由を覚えてないんだよね…』
『自殺だったりして。本末転倒だ、あはは』
(全く笑えないんだけど…?)
ゾッとするような冗談のおかげで、ごちゃごちゃと考えていた不安感が吹き飛ぶ。いつの間にか、胸に取り巻いていたモヤが晴れた気がした。
翌日。教室に来てみると、何やら騒がしかった。二人の女子生徒を取り巻くように、クラスメイトが狼狽えている。
「き、桐谷さんっ…落ち着いて!」
桐谷と呼ばれたのは、真っ直ぐな黒髪と切れ長な瞳が印象的な女子生徒、桐谷汐だった。普段彼女の席はいつも空席になっているので、少女は初めて桐谷を見る。そしてその細腕がなんと、もう一方の女子生徒の胸ぐらを掴んでいた。
もはや男女問わず桐谷ともうひとりの紛争に釘付けである。
「あなた、今言ったこともう一度吐きなさい」
掴んだまま、つとめて落ち着いた口調で命令する桐谷。
「だーかーらぁ、そのでっかいの邪魔だからぁそれ相応の対応しただけだしぃ」
もうひとりのギャルも中々に図太い。二人の間に、大きなギターケースが立てかけられていた。このギャルが、桐谷の楽器をぞんざいに扱ったことにキレているようだ。
「これは、私のものなの。あしらっていいものなのか、あなたが決めていいことじゃない。次、同じようにしたら許さないわ。ほら、謝りなさい」
見逃してもらえたようだ。桐谷という女性、迫力があるが心が広く穏やかな人なのかもしれない。
「だーれが謝るかよ。あたしが何しようとあたしの自由だし」
そのギャルはそう言って桐谷を振り払うと、ケースを掴んで窓から放り投げるそぶりをした。相手が普通の女の子だったなら、それだけで十分な脅しになったのだろうが。
バシッ!!!
容赦ない平手打ちが飛ぶ。ケースはしっかりと取り戻されていた。
「もういいわ。ここへ持ってきた私が馬鹿だったのね。やっぱりこんなところに来るものじゃないわ」
彼女は艶めく黒髪をなびかせて、教室を出ていく。
(あんなかっこいい子、いたっけ…?)
少女は遠ざかっていく桐谷の背中から目が離せなかった。燦然としたその姿を追いかけたい衝動に駆られる。
“そのひとときが、青春なんだから。”
少年の言葉が聞こえてくる。少女は走り出す。
「桐谷さん!待って!!」
これまでに出したことのない大声を出した。無視される可能性を知ったまま人に話しかけるのは怖いことだ。だがそれでも、大きな声が出た。
…桐谷汐が、こちらを振り向いた。
「あの!どこへ行くの…?着いて行ってもいい?」
口ごもらないよう気を張って、精一杯目を合わせる。
「あなた…とっても可愛らしいひとね」
凛とした瞳が柔らかく微笑む。
「部室へ行くの。ぜひいらっしゃい」
案内された物置き倉庫には大きなアンプがいくつか並び、ドラムセットがピカピカと輝いていた。桐谷はケースを開き、なにやら準備する。
「あなた、見たことない顔だわ。お名前は?」
「さ、漣羽仁華…です」
「ハニカさん。私は桐谷汐。"しを"と呼んで」
言いながら、おもむろに右手が動き出す。身体の底から震えるような重低音が響いた。
ギターだと思っていたそれは、ベースだったらしい。
キレッキレの演奏に身を委ねると、頬が紅潮した。少女にとって全く経験のない世界だったが、ひどく心地いい。
「ハニカさん!」
「何ぃー!?」
鳴り響く重低音を掻い潜って、一生懸命に答える。
「お友達になってくださらない?」
ブチンッ
突然、倉庫の灯りが消えて真っ暗になる。
『ごごご、ごめぇーん!!!』
灯りが戻ると、スイッチのそばに少年が浮かんでいた。ほんとうに申し訳なさそうで、土下座せんばかりの勢いである。
『う、嬉しすぎて…飛び上がったら…ぶつかって』
「ふふ。」
少女は笑って言う。
「私でいいのなら…ぜひ」
「ねぇ」
桐谷はもう少しベースを弾くと言って教室に戻らなかった。いつものように隅で大人しくしていると、なんとクラスメイトに声をかけられたのである。
「おいって。返事しろよ」
少しおびえながら、声の主の方を見る。
「えっとぉ、さざなみさん、だっけぇ?あいつと仲良いんだね」
あいつとはきっと、桐谷のことだろう。
「そんなさざなみさんにお願いなんだけどぉ、あいつのギター、ぶっ壊してきてよ」
(この子はいったいどこまで…)
恐れを通り越して何かが吹っ切れてしまった少女は、そのままの瞳で見上げる。
「ずっと思ってたんだけど」
…唯一できた友人の姿が感染ったのかもしれない。
「あなた、チョー性格悪いのね。こっちが恥ずかしくなる…なんでそこまで人を巻き込みたがるの?私何かしたっけ」
言い返してくると思わなかった、と顔いっぱいに訴えながら言葉を探している。
「お、お前が…うざいから悪いんだ」
「なにそれ。失礼な」
「お前ばっかり…何もしてないくせに、結構モテてるし」
「えっと……?」
想像以上にくだらないかもしれない。この際、徹底的に聞いてしまおう。
「ごめん、モテてる…?そんなわけないでしょ」
「うっざ…」
「いや、“うざ”以外の語彙を持って教えてほしいんだけど」
相手は鼻息が荒く今にも爆発しそうなのに、少女は不思議と落ち着いていた。
「ほら、話してよ。何が不満なの」
「…戸田」
「ん?誰それ」
「戸田くんと、話さないで」
(これ…もしかして私、怒ってもいいのかな。)
「わかった」
「ほんと…!?」
「刺しに行くね」
教室の備品であるカッターナイフを片手に、少女が微笑む。
「その、戸田ってやつのせいでいじめられたもの。絶対許さない」
「ちょっ…まって」
「待たない!!!」
今日という日は、大きな転換点なのかもしれない。少女は、今までに出したことのある”大きな声”の記録を二度も塗り替えた。
「あなたの言い分を聞いてみたけど、ほんと訳わかんない!ずっといないもの扱いしてきたじゃないっ」
「…都合のいいように使えるとでも?そんなわけないでしょ!あんたは真っ赤な他人よ!!」
「謝れとも言ってあげないから!もう、我慢したりしないっ…あんたに従う筋合いはね、無いの!!」
吐き出した分、大きく息を吸った。
さぁ、朝のホームルームが始まる。
「ただいま…」
今日のリビングは真っ暗だった。少女は恐る恐る、母親のいる寝室へ向かう。
ゆっくりドアを開けてみると、母は起きていた。そばに音楽が鳴っているスピーカーを置いて、遠い目をしている。掠れるような、絞り出すような声が非現実的な歌詞を歌い上げていく。何度も転調を繰り返す旋律はとても感情的だった。
ただ遠い目をしているのではなく、その曲に身を委ねているのだと悟った。
「お母さん…あのね」
「…プリン、買ってきたよ」
母の微笑みを、少女は目に焼き付ける。
「ありがとう。」
彼女の心はまだ傷ついたままだが、母を一人の人間として見つめたのだった。
少女は、桐谷とよく過ごすようになった。いじめの主犯格だった女子生徒がおとなしくなったため、次第に少女へのシカト攻撃は薄れていく。
近頃の生活は思いのほか面白かった。だからこそ、少年の姿がよく見えなくなることに気づかなかったのだ。
何の気なしに屋上へ出てみた少女。そこで、衝撃的な光景を目にする。
男子生徒が、大きなフェンスの上に腰掛けている……次の瞬間、前のめりになってフェンスを蹴り出した!!
「っ…!」
強いショックによって声も出せない。だが、状況は少女の思っているものとは少し異なっていたようだ。
先ほど飛び降りてしまった少年が、ゆっくりと上昇してきた。ふわりと翻って、校舎の縁に座る。
『思い出しちゃった…』
達成感と、悔しさとが滲む声が苦しい。少年は膝を抱えて顔を埋める。
前向きな言葉で少女を励ましてくれたあの少年が、小さくなっている。今にも消えてしまいそうなその肩が密かに震えているのを見て、少女は耐えられなくなった。
「ねぇ、名前なんていうの!」
少年は驚きのあまり、膝を抱えた格好で飛び上がる。
『え…君…』
彼のことをもっと知りたくて仕方がない。
『僕のこと…みえてるの』
声のか細さが、以前の少女の姿を彷彿とさせるのでつい笑ってしまう。
「うん!見えちゃってるっ!!」
『見えちゃってるって…なんだそれっ』
そう言って少年が破顔する。
陽の光に透けているせいか、ひどく眩しかった。