結婚で隔てられた愛情の末路
「結婚することになったの」
なぜずっと一緒にいる私よりも、顔も知らなかったはずの婚約者に、そんなに頬を染めてはにかんだ顔を見せるのだろう。
私はコスモスの咲きほころぶ東屋で、冷えたレモンティーを口にする。
「お父様の一周忌の時、私が眠れずにいた夜、あの人はずっと一緒にいてくれたの。まだ結婚前だからって、私を寝室に入れて、そして彼はドアの前で。朝ドアを開くと、毛布にくるまった少し眠そうな彼の髪が冷えていて。それでも彼、私を見上げて微笑んでくれたの。少しは眠れましたか?って。私、本当に……」
はにかむ彼女は覚えているだろうか。
彼女の父が死んだ夜、夜通しその肩を抱いて涙を受け止め続けた私のブラウスを。ぐっしょり濡れて鎖骨に湖ができるほどになって、私は、それでもあなたを抱きしめて、その柔らかな髪を撫で続けたのだと。甘ったるい匂いがする寝室に、同じお揃いのブティックで揃えたネグリジェ。お揃いのリボン。同じランジェリーショップで仕立ててもらっているから、誰にも見せたことはないけれど、ランジェリーまで私たちはお揃いだ。姉妹よりも親しく、互いの令嬢らしくない笑い方も、鼻水も、下品な話も、誰にも言えない秘密も、全部共有しあいすぎて、わたしたちの間には生暖かい沼ができている。あなたは全部を剥ぎ取って、婚約者のためのものになるのだ。磨き上げた石鹸の匂いをさせて、笑い泣きして転げ回ったこともないような清楚な白い顔を作って、ヴェールを持ち上げられて食べられるのを待つだけの、そんな花嫁に。
「おめでとう」
私は練習した言葉を口に乗せた。
「お父様が亡くなってから、ずっと殿方がいなくて心細かったでしょう? 本当によかった。財産も家も、全て守られるわね」
私が男だったら、あなたのお父様が死んだその夜に自分のものにしていた。
俺と結婚してくれ、俺が一番お前のそばにいるじゃないか、幼馴染じゃないか。俺が守る、そう言えたのに。一年も待たせはしないのに。
「これからはこの庭のコスモス、アイネと一緒に見られることはないのね」
「そんなこと言わないで。機会はいつだってあるわ」
「どうかしら。結婚するのだもの、二人で会うことなんてもう難しいわ」
「……」
私は返事ができなくなった。
かつて、リンディアの屋敷にもコスモスは咲いていた。
しかしリンディアの父が没したのち、リンディアの屋敷は庭師を解雇してしまったので、一年草のコスモスは今年、咲きほころぶことはなかった。
まるで私たちの関係のようじゃないか。
どんなに毎年変わらぬ関係を続けていても、来年は約束されていない。
これからは夫という突然現れた多年草に、彼女の隣は埋め尽くされる。
◇◇◇
リンディア・ネバーライン侯爵令嬢は結婚し、リンディア・アルトリヒリ侯爵夫人となった。
幼馴染の私は彼女を愛称のリーンと呼び続ける。
彼女もまた、私をアイネと呼び続けてくれる。
結婚式、誰よりも美しい花嫁になった彼女も、列席する私を見てほころぶような笑顔で「アイネ」と呼んでくれた。今までと同じ、幼馴染の顔で。
満たされる。
世界一美しいリンディアが、私をアイネと呼んでくれる。
けれど後ろにいる黒髪をなでつけた男が、小走りになろうとする彼女の手首を躊躇いなく捕まえた。
「リーン。ドレスで走るな」
「あっ」
気恥ずかしそうに我にかえり、彼女は控えめなお辞儀をして、私にはにかんで手を振って、彼と共に奥に消えていく。
男は、私を見ることもなかった。
結局私は「友人」の席から手を叩くだけの幼馴染で、彼は彼女の手首を握り、名前を愛称で呼び、ヴェールを持ち上げてキスをできる、伴侶にはなり得なかったのだ。
結婚式の後、私は全てが終わった会場を振り返った。
散らばった飾りに、人の消えた会場。私の化粧はよれていて、つま先はヒールで立ちすぎてズキズキと痛む。
お目付け役が、何人もの殿方から手紙を受け取っていた。
彼らの手紙は全て両親の手に渡り、厳選されて私の見合いがセッティングされるだろう。
どんなに感情が掻き乱されても、辛くても、気持ちが追いつかなくても。
現実は否が応でも勝手に先に進んでいく。
私と彼女の関係は、終わった。
◇◇◇
私も平凡な、ごく当たり前の結婚をした。
こだわりは何もなかった。リンディアは遠方の辺境伯家に嫁いだので、二度と会うこともないだろうと思ったのだ。
親が認めて、暴力を振るわない、安全な人なら誰でもいい。
多少の浮気も、浪費癖も、価値観の違いも大したことじゃない。
私の花の時代は終わった。これからは余生のように人生を過ごすと決めたのだから。
そして私は温厚な男性と結婚した。
世間の言うように「殿方を知れば恋を覚える」というような、特別な感情は湧かなかった。泣き濡れるリンディアを抱きしめて過ごした一夜の方がよほど、鮮烈に私の胸を沸き立たせていた。
けれど、彼はとてもいい人だった。
少なくとも大切に家庭を築いていこうと、彼の多年草として隣に居続ける覚悟を決められるくらいには、とても。
私たちは穏やかな日々を重ねた。
世間に望まれるままに子供を持ち、女主人として日々を忙しく過ごした。
子供たちは健やかに育ち、私も母として充実した日々を過ごした。
駆け回る娘の背中に、私は過去の自分を思って胸が痛くなった。
リンディと一緒に駆け回った、庭の景色が重なりそうになるのを押し殺した。
時折、リンディアのことを風の噂で耳にした
彼女も三人の子供に恵まれ、侯爵夫人として充実した日々を送っているという。
私たちは示し合わせたように、互いに手紙の一つも贈らなかった。
互いにただの「リーン」と「アイネ」だった時代とは、決別したのだ。
◇◇◇
二十年の歳月が流れた。
夫は病に倒れ、静かに息を引き取った。子供たちは既に独立し、私は広すぎる屋敷で一人きりになった。そんなある日、一通の手紙が届いた。
他の多くの事務手続きの手紙に紛れていたので、作業のようにまとめて封を切ってしまった。なので、うっかり開いてしまったのだ。
それはリンディアからの手紙だった。
開いただけで、数十年ぶりの感覚が、匂い立つように体に戻ってきた。
アイネは老眼鏡を磨き、窓辺に立ち、食い入るように手紙を読んだ。
心臓が、老いた体が壊れそうに跳ねている。
「アイネ、私も一人になったの」
リンディアの夫も、持病が悪化して他界したという。
短い手紙には、今の居場所について簡単に書かれ、いつでも訪ねてきて構わないと締めくくられていた。
全ての雑務を投げ出して、私は馬車を出させて彼女の元へと立った。
老いた体の長旅に使用人が顔を顰めたが、構ってはいられなかった。
彼女は王都の小さな屋敷に住んでいた。
まるでおもちゃのような白塗りの二階建ての家の、花で彩られた門をくぐる。
そこには昔と変わらぬ笑顔で、ただ少し白髪が混じった彼女が立っていた。
「アイネ」
「リーン」
私たちは、お互いに若い頃と全く違う姿になっていた。
懐かしさや再会の喜びより、私は長い時を経てしまった茫然とした気持ちになった。
それは彼女も同じなのだろう、肩をすくめて、私を奥の庭園に案内した。
「ちょうど見頃だったの。あなたを待っていたようにね」
庭にはコスモスが満開だった。
彼女が入れてくれるレモンティーは、あの頃と同じ香りがした。
リンディアが話を切り出した。
「覚えてる? お父様が亡くなった夜のこと」
「ええ。今日も抱きしめる必要があるかしら」
冗談めかして言ったつもりだった。
しかし顔をあげて彼女を見ると、リンディアは目元を真っ赤にしていた。
唇が震えている。
先ほどまでは、すっかり年老いて別人になったと思っていたリンディアが。
あの夜に抱きしめた少女のままの表情で、手元のティーカップに目を落としていた。
「……夫が亡くなった夜。私、無意識にあなたを探していたの。おかしいでしょ? もう数十年前のことなのにね? 父が亡くなった時、私をずっと慰めてくれたあなたが、恋しくて」
涙声になった彼女は、顔を覆って吐き出すように続けた。
「私、秘密があるの」
「どんな秘密?」
「私、あなたと離れたくなかったのよ、アイネ。アイネを愛していた。愛とは違うのかも知れない……けれど、愛としか言いようがないの。だって、私はあなたの腕の中で泣いた夜だけが、本当の私でいられた夜だった」
「リーン……」
「あなたは居心地が良かった。だから、あなたに甘えすぎちゃいけないと思ったの」
だから結婚したの。
そう、鼻を啜りながらリンディアは言う。
「大人の女性になれば、目が覚めると思ったの。女学生時代に悩みを打ち明けたお医者様も、そうおっしゃったわ。本物の愛の代替行為として、私はアイネを愛しているのだと。だから大人にならなければいけないと思った。……私はあなたへの依存を止めたかった。大人の言う、本物の愛を知ることで。頼りすぎていたから、あなたの人生の邪魔をしてしまうのが、怖くて」
「リーン」
「夫はとても良い人だったわ。真面目で誠実で、自分にも家族にも厳しい人だった。辛いこともあったけれど、彼のお陰で今の生活が守られていることは心から感謝している。私は甘えた小娘だったから、とてもこんな生活、彼なしには得られなかった……けれど、辛い時、寂しい時、あなたの腕の中で泣いた夜を思い出して、ずっと心の支えにしていたの。……ごめんなさい。私はずっと、あなたの影を求めていたの。だから夫が一度浮気をして帰ってきた夜も許したわ。私が責められるわけないじゃない」
これまでの人生を取り戻すように、リンディアは涙声で語り続けた。
私は椅子を傍に寄せ、彼女の肩を抱きながら、時に肩を貸しながら、彼女の物語に耳を傾けた。
太陽が影って庭が冷えても、翌日に持ち越しになっても、私はリンディアの話を聞き続けた。
肩を寄せ合った私たちは、お互い骨ばった体になっていた。黒髪と金髪も白髪だらけになって、お互いもう娘の頃と違う匂いがしている。それでも、抱きしめると鎖骨に頬を寄せて泣きじゃくるリンディアの癖は、あの夜のままだった。
「またお友達になりましょう。もっとたくさん会いましょう。今度は、死ぬまで」
「ええ、死ぬまで一緒よ」
一度離れたことがあったとしても、互いに添い遂げた相手がいたとしても。
最後に肩を寄り添い合える相手に選ばれることより、嬉しいことがあるだろうか。家柄でも世間体でもなく、私たちは真心で、互いを求め共に過ごすことを決めた。
私たちは再び、誰にも邪魔されない二人きりの世界を取り戻した。
その年を境に毎年、リンディアの屋敷にも、私の屋敷にもコスモスが咲き綻び始めた。
一年草は確かに一度は枯れてしまう。
けれど種は、また芽吹くことができるのだ。
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