ボクと一緒に
翌朝――エーデリック屋敷内、鍛練場。
けたたましい金属音が鳴り、一本の模造剣が宙を舞う。
アスタルの剣先がハエンの顔面に突きつけられた。
「――そこまで!」
試合の審判兼立会人の執事長バレルは、硬い声と共に手を上げる。
それは試合が終了した合図。そして――
「これで終わりだな、ハエン」
――ハエンの追放が確定した瞬間でもあった。
「く……そ……」
圧倒的だった。
ハエンの攻撃は一切当たらず、アスタルの攻撃を眼で追う事すらできなかった。試合時間は一分も経っていないだろう。
あまりに不甲斐なさすぎて、ハエンは顔を上げられなかった。
「お見事でございます、アスタル様」
「この程度、見事でもなんでもない。虫けら相手に勝って誇るほど俺は浅ましくない。この結果は最初から分かりきっていたことだ」
「……左様でございますな」
抑揚を抑えられたバレルの声から、確かなハエンに対する嘲りが聞き取れた。試合を観戦していたメイドたちからもクスクスと嘲笑が聞こえる。
この結果は分かりきっていた。アスタルがそう言ったように、この場にいる誰もが予想通りだったのだろう。
賭け事にもならない単なる見世物。とんだ茶番だ。
「もはや貴様の運命は決まった。荷物をまとめ、さっさと屋敷から出ていくがいい。これは現当主としての命令だ。それでバレル、今日の予定はどうなっている?」
「はい、今日のご予定は――」
剣を収めたアスタルはバレルと共に予定を確認しながら、振り向くことなく鍛練場を後にする。もはやハエンのことなど眼中にないということだ。
それに続いてメイドたちも、ハエンに頭を下げることもなく去っていった。この瞬間からハエンはエーデリック家の人間ではなくなった。部外者に礼など不要ということだろう。
一人取り残されたハエンは膝から崩れ落ちる。あまりに惨めで、情けなくて、歯を食い縛って床を殴る。
「何だよ……どうしてこんな……!俺が一体何をしたっていうんだ……!」
いや、分かっている。何もできないからこんな事になったのだ。
もっと力があれば、もっと頭が良ければ違う道を歩めたのかもしれない。
あるいは、この特異技能〈精霊回帰〉の使い方さえ分かっていたら――
「精霊って何なんだよ!どうすれば使えるんだよこの技能は!チクショウ!!」
***
護身用の剣と少しばかりの金貨、それと替えの服。纏めるといっても、持っていける荷物はそれくらいしかない。それらを背負い袋に詰めたハエンは部屋を出る。
優に五人は並んで歩けるであろう広い廊下を歩くのも、側面に飾られた豪華絢爛な美術品を横目に見るのもこれで最後になるだろう。
突然外に出ろと言われても、これからどうやって生きていけばいいのかさっぱり分からない。貴族の子として最低限の教養はあるつもりだが、一人で生きていく術までは身に付けていない。
地べたを這いずり回り、泥水を啜るような生活が始まるのだろうか。それとも誰かの奴隷として身を粉にするのだろうか。これからの未来を思うとハエンは胸が重くなった。
「……ハァ…………」
尽きない溜め息を吐きながらハエンは重い足を動かす。
どうやらアスタルは出掛けてしまったようだ。ならば、もう少しだけ時間を使っても構わないだろう。
ハエンはなるべく使用人がいないルートを選び、最後にとある部屋を目指す。
その部屋とは当然、フウのいる部屋だ。
ハエンは封印を解くために扉に手を伸ばす。何も考えずとも指が勝手に動くほど手慣れた動作だが、これをやるのもこれで最後だ。
「……フウ」
『ハエン……待ってたよ。どうだった?』
部屋に入ったハエンにかけられたフウの声にいつものような明るさはない。
察しているのだろう。これで会えるのは最後だということを。
「…………」
『…………そう、なんだ……』
「……ごめん」
『…………』
ハエンはフウに視線を落とす。
「ありがとな。今まで俺なんかと仲良くしてくれて。俺と一緒に笑ったり、怒ったりしてくれて。……俺、お前に出会えて本当によかった」
『…………』
「……正直言って、お前は俺の幻想なんじゃないかって思ったこともあった。俺の心が作り出した架空の存在なんじゃないかって。だけど……お前が何者であれ、俺の心を支えてくれた一番大切な親友だ。それは離ればなれになっても変わらない。これから俺はどうなるか分からないけど、絶対にお前の事は忘れないよ」
『………………』
「だから、お前も俺の事を忘れないでくれよ。絶対にだぞ?約束だからな」
最後は笑って分かれようと思っていた。決して涙は流すまいと思っていた。
だが、そんなことは不可能だった。ハエンの頬を光る粒が這って落ちていく。
『…………だ……』
かすれた声でフウが何かを言ったような気がした。
だが、涙で濡れたハエンには届かなかった。
「……さようなら、フウ」
最後の別れを口にし、背を向けるハエン。その時――
『イヤだっ!!』
十年の付き合いの中、一度も聞いたことのない大声がハエンの背中にぶつけられた。
『イヤだイヤだイヤだ!行かないでよハエン!キミがいなくなったらボクはどうすればいいの!?他の誰にもボクの声なんて届きやしない!キミだけがボクの声を聞いてくれたのに……キミがいなくなったらボクはまた独りぼっちだ!そんなのイヤだ!ボクを置いていかないで!置いていかないでよぉ……ハエン……!』
「……っ!だって……そんなの……どうしようもないだろ!!」
堪えていたものが一気に爆発したようにハエンもまた声を大きくする。
「どうすればよかったんだ!俺じゃあ兄上に勝てるはずもない!勝負を持ちかけられた時点で、もう運命は決まってたんだよ!」
違う。
こんな事を言いたい訳じゃない。
こんな事を言ったって何の意味もない。
だが、様々な感情が沸き上がって止められない。
「俺だってお前と別れたくない!でも、たった一つの希望だった俺の特異技能だって結局は何の役にも立たなかったんだ!俺だって一生懸命やった!だけど駄目だったんだ!もう今更……どうすることもできないんだよ!」
『……っ!』
息を呑む音が聞こえて、ハエンは我に返る。
辛いのは自分だけではない。これで最後だというのに、感情に任せて怒鳴るなど最低だ。
「あ……ご、ごめ――」
『――今……キミ、何て言った?』
怒っている声ではない。どちらかといえば驚愕している声だ。
「……今更どうすることもできないって……」
『違うよ!その前!』
「その前……?」
『俺の特異技能って言わなかった!?』
確かに言ったが、そんなに驚くことだろうか。
「あぁ。実は俺、生まれつき特異技能を持ってるんだ」
『何それ!?ボク、初めて聞いたよ!?』
「使い方が分からなくて馬鹿にされるのが嫌だったから、今まで誰にも話したことなかったんだ。〈精霊回帰〉っていう技能なんだけど……使っても何も起こらないんだよ」
『……っ!ちょ、ちょっとそれ、今使ってみてよ!』
「いや、だから使っても何も起こらな――」
『いいから!それをボクに触って使って!!』
何をそんなに食いついているのだろうか。
よく分からないが、親友にそこまで言われたのなら仕方ない。
ハエンは再度フウに向き直り、その柄に触れる。
そして特異技能を発動させた。
「〈精霊回帰〉!」
直後――ハエンの腕から注ぎ込まれたかのように、フウの姿が光に包まれ始めた。
「うわぁ!?」
どうせまた何も起きないとふんでいたハエンは、剣が輝きながら浮かび上がるという衝撃的な光景に思わず飛び退く。
それは星のように神秘的で美しい光だった。衝撃的だったが決して嫌な感じはしない。それどころかいつまでも見ていたくなるような優しい輝き。
光は強まるにつれ、剣の輪郭すら曖昧になっていく。やがて太陽のように眩い輝きとなり、ハエンは思わず眼を腕で覆い隠した。
一体何が起こったのか。
ピークが過ぎて弱まっていく光を腕越しに感じ取ったハエンは、その答えを知るべくおそるおそる腕を下ろす。
「………………え……っ?」
そして――ハエンは思わず自分の眼を疑う。
そこにはもう剣の形をしたものはない。
代わりにいたそれは、ヒトの形をしていた。
肩口程度まで伸びたショートストレートな髪は、蒼天の陽に照らされる草原の如く鮮やかなエメラルドグリーンの色をしている。少年のようにも見える中性的な容姿は人間離れした端麗さと可愛らしさが両立しており、一目見ただけで眼を奪われてしまうほどだった。
絹のように滑らかな肌に細くすらっとした輪郭は人間の子供のようで、身長はハエンより少し低い。身に付けている衣服は動きやすさを重視した少年のようで、開かれた瞳は髪色と同じエメラルドグリーンの輝きをたたえていた。
「…………」
少女は自分の身体を見回し、機能を確かめるように拳を作って開く。
それから唖然とするハエンに近寄り、その頬を撫でるように触れた。
「……あ、あの……?」
驚愕と困惑が入り交じったハエンの事など意に介さず、少女はハエンに触れ続ける。じっと見つめてくる瞳は今にも吸い込まれそうなほど澄んでいて、宝石のように綺麗だった。
頬から肩へ、肩から胸へ。少女は触れる箇所を変え、最後は心臓の鼓動を確かめるようにハエンの胸の中心で手を止める。
そして感極まったように震えたと思えば――突然、力強く抱きついてきた。
「どふっ!?」
突撃するかのような抱擁の衝撃でハエンは声を漏らす。
こんな眼を奪われるような可愛らしい容姿をした少女に抱きつかれれば顔も紅潮するのだろうが、今のハエンはそれよりも驚きの方が勝っていた。
「あっはははは!触れる!すごい!触れるよハエン!あはははははっ!!」
抱きつきながら少女は無邪気に笑う。
「ちょっと待て!お前まさか……フウなのか!?」
「そうだよボクだよ、フウだよ!」
「マジか……!いや嘘だろ!?だってこんな事……」
「嘘じゃないよ!ボクがフウなんだってば!」
ハエンは理解が追い付かなかった。
扱い方が分からず役立たずだと思っていた特異技能を発動させてみれば、剣であるはずの古代遺物から少女が生まれる。
こんな状況、誰だって理解できないだろう。
「ありがとうハエン!キミのおかげでボクは元に戻れたよ!さすがボクの大親友!ホントにありがとう!」
「え……あ……どう、いたしまして……?」
何も分からないままだが、そんな心底嬉しそうに感謝をされれば、ハエンは狼狽えながらもそう答えるしかなかった。
「……ふう。それじゃあ、そろそろ行こっか」
しばしの抱擁を終えたフウは唐突にそう言うと、扉の方を見る。
「えっ、お前も屋敷を出るつもりなのか!?」
「当たり前でしょ。もう自分で動けるようになったんだし、キミも居なくなっちゃうなら、こんな狭っ苦しいところにいる理由はないよ」
「いや、でも古代遺物が無くなったらエーデリック家は……」
「そんなの知らないよ。ボクはもう古代遺物じゃないし。あんな高慢ちきな当主の所有物になるなんてごめんだね。ボクはもうキミと一緒に行くって決めたんだ」
フウは扉に手を掛けようとして、動きを止める。
「おっと、誰かに見つかると面倒だね。それじゃあ……」
少し考える素振りを見せた後、フウの視線は窓へと向けられた。
「あそこからがいいかな。今日はいい風吹いてそうだし」
「おいまさか、窓から出るつもりなのか!?そこにも封印魔法がかけられてるんだぞ!?それも扉よりもずっと強力な――」
ハエンの制止に聞く耳を持たず、フウは窓に近寄って手を伸ばす。屋外からの侵入を防ぐためにかけられた強力な封印魔法が発動し、近づく者を弾き返す薄い膜のような障壁となった。
「これ、邪魔だな」
熟練の魔術師でも解除はできないと言われている強固な封印魔法。長いエーデリック家の歴史の中、家宝であり象徴である古代遺物を護り続けた結界を――
――フウは、ただ紙切れを握りつぶすように容易く破壊した。
「なぁ……!?」
信じられない出来事が重なりすぎて、もはやハエンは絶句するしかなかった。
「痛ったぁ……!さすがにちょっと無茶だったかな。……まぁ、壊せたからいっか」
窓が解放され、爽やかな風が部屋の中に流れ込む。それを全身に浴び、なめらかな髪をなびかせながら、フウはハエンに向かって手を差し出した。
「ほら、なにボーッとしてるのさ。一緒に行こうよ」
「いや、だってお前ここ何階だと思って……」
「大丈夫大丈夫。ボクに任せて」
直後、室内だというのに風が吹き荒れる。窓から入ってくる風ではない。まるで意思を持っているかのようにハエンに纏わりつき、身体を浮かび上がらせた。
その瞬間、ハエンは思い至る。
“風神剣ウィンダール”は風を操る古代遺物だった。ならばそれが姿を変えた目の前にいる少女もまた、風を操れて当然ではないかと。
「ま、まさかお前……」
嫌な予感を覚えるハエン。
フウは自ら操る風でハエンと共に浮かび上ると子供のような純粋な笑みを浮かべ、窓の外を指差した。
「じゃあ行くよーっ!いざ、出発!」
「待て!まだ心の準備があああああああああ!!!」
突風が吹きすさび、押し出されるようにハエンの身体が窓から飛び出す。高所恐怖症の人間ならば卒倒しそうな光景が広がり、纏わりついた風が更に高く身体を押し上げてくる。
慣れない浮遊感にもがくハエン。その手をフウが取る。
そして二人は遠くの空へと消えていく。
――この日、ルーインス街では風の音に混じって上空から少年の悲鳴が聞こえたという噂が流れたとか。