唯一の友は古代遺物
屋敷内のとある一室の前にやってきたハエンが扉に手をかざすと、円形の中にいくつもの小さな丸印が規則的に並んでいる模様が浮かび上がった。
これは部屋にかけられた魔法によるもので、エーデリック家の人間にのみ伝わる手順でないと解くことのできない封印だ。つまり、現在はハエンとアスタルのみしか部屋に入ることは許されていない。
ハエンは模様の中の一番下の丸印に指で触れると、慣れた手付きで指を滑らせ、順番に印に触れていく。
やがて決まった手順で印に触れ終えると、模様は扉から消えていった。
一時的に封印魔法が解除されたことを確認したハエンはゆっくりと静かに扉を開き、中へ足を踏み入れる。
外から入り込まれないようにと、扉よりも強固な封印が施されている窓から差し込む日の光と、部屋の中の明るさを一定に保つ“光石”がはめ込まれた四つの壁掛け燭台によって照らされたその部屋は、無駄なものが一切置かれていない。
あるのは中央に置かれた台座のみで、その上に安置されていたのは一振の剣。剣身から柄にいたるまでほのかに緑色を帯びており、凝った装飾こそ無いものの、普通の剣とは異なる神秘的な雰囲気を纏っていた。
それは古代遺物と呼ばれる、異質な力を帯びた存在。
出自も製法も不明。誰が何のために作ったのかも明らかになっておらず、一つ一つが現代の魔法学では説明が付かない不思議で強大な力を持っているため「神の忘れ物」などと比喩する者もいる。
この部屋に安置されているのは、エーデリック家に代々伝わる家宝。かつて先祖が王より賜り、貴族として歴史を刻み始めた、いわばエーデリック家の象徴とも言える剣。
手にした者は風を自在に操る力を得る古代遺物。
その名を“風神剣ウィンダール”といった。
「…………」
ハエンは音を立てないように扉を閉める。シンとした静寂が部屋を包み込んだ。
『……ハエン?』
その静寂破ったのは、少年ともとれるような少女の声だった。
『やっぱりハエンだ!やっと来てくれたんだね!』
「ごめんな。本当はもっと早く来るつもりだったんだけど、ちょっと急な用事ができちゃって」
『もう、待ちくたびれたよ!もう少しで二度寝しちゃうところだったんだからね!』
ハエンは声が聞こえてくる場所――風神剣の前まで移動し、その柄をそっと撫でる。
そう。ハエンが話している相手は人間ではない。
喋っているのは目の前にある剣――風神剣だ。
なぜ剣が喋るのか。
そういう力を持った古代遺物だからなのか。
何も詳しいことは分からない。
もしかしたらハエンの幻聴という可能性もある。
というのも、この声はハエンにしか聞こえないのだ。
アスタルにも屋敷の使用人たちにも彼女の声は届かない。
自分だけに聞こえる、喋るはずのないものの声。それが夢や幻ではなく、現実のものであるという根拠は無いも同然。
しかし、そんなことは関係ない。
夢だろうと幻聴だろうと、確かなことは一つ。
それは、風神剣はハエンにとって唯一の友だということだ。
「ごめんごめん。お詫びと言っちゃなんだけど、今日は綺麗に磨いてやるよ、フウ」
ハエンはここに来る前に手揉みをして柔らかくした薄い布と水の入った小瓶を取り出し、台座の上に設置する。
“フウ”という名は、正式名称では呼びにくいからとハエンが付けた名だ。“風神剣ウィンダール”だから“フウ”という安直な由来だが、彼女自身はこれを気に入ってくれている。
『いいね。ちょうどホコリが気になってたんだ。ほら、鍔と剣身の境目の辺りとか』
「ん?この辺か?」
ウィンダールを持ち上げ、ハエンは布で言われた通りの場所を軽く撫でる。
『あーそこそこ。いいよいいよー。剣身もしっかり磨いてね』
「ハイハイ。フウ様の仰せの通りに」
小瓶の中の水を垂らして布を湿らせ、ハエンは剣身を優しく磨く。
本来剣の手入れには専用の油を用いるのだが、そうしないのはフウが嫌がるからだ。「油はぬるぬるするから嫌い」だとブーブー文句を言われたことはよく覚えている。
わざわざ手入れをしなくとも、フウは古代遺物の神秘故か錆びたりはしない。だが、錆びなくともホコリが溜まれば汚れもする。それを綺麗に磨いてやるのは当然のことだろう。エーデリック家の者として。そして何よりも友として。
父が亡くなり、兄からは無能だと蔑まされ、使用人もその態度が伝染して冷たい視線を送ってくるような屋敷の中で、ハエンにとってフウは唯一心を許せる存在なのだから。
『……んっ、ハエン……その辺は優しく……』
「お前な……変な声出すなって」
『フフフッ、ドキッとした?』
「する訳無いだろ。やりにくいから大人しくしてろ」
『えー、しょうがないなぁ……』
言われた通りに大人しくなったフウを、これ以上無いくらい丁寧にハエンは磨いていく。
――アスタルが指定した勝負の日時は明日の朝。
もしかしたら、もう二度とフウには会えなくなるかもしれない。
いや、間違いなくそうなるだろう。
アスタルは自他共に認める天才。半年に一度王都で行われる、数多の猛者たちがしのぎを削る武術大会で、優勝争いの常連となるような実力者。
対してハエンは同大会で予選すら突破したことがない。
才能が無く、魔法も技能も使えない凡人以下の人間がそもそも出場すること自体が間違っているのだが、エーデリック家の人間として無理矢理出場させられている結果、「ハエンと当たった選手は不戦勝も同然」とさえ言われてしまう始末。
そのくらいアスタルとハエンには実力の差があるのだ。一朝一夕でどうにかなるものではない。
ただ、一つだけ可能性はある。
それは――ハエンが特異技能の所持者であるということだ。
通常、技能というものは鍛練によって身につける能力だ。
しかし、ごく稀に生まれながらにして技能を持つ者が存在する。そういった技能は唯一無二であり特異的な力であることから、総称して特異技能と呼ばれている。
埋もれた鉱石がある場所を見抜いたり、意識せずとも人を惹きつけてしまったり、動植物と話せたりと特異技能にはその名の通りユニークな能力が多いが、ハエンにもまたその力が宿っている。
それを使えば、あるいは奇跡が起きるかもしれない。
だが――ハエンが持つ特異技能は一つ大きな問題を抱えている。
唯一無二の技能であるにも関わらず誇れず、それを持っている事実を誰かに話す事すらはばかるほど重大で、致命的な問題が――
『――ねえ、ハエン』
「……ん?」
『今日、何かあったの?』
これまでとは違う声色でそう問われ、ハエンの手が止まる。
『…………そう。やっぱり何かあったんだね』
「……よく分かったな」
『分かるよ。もう何年の付き合いだと思ってるのさ』
果たして何年だっただろうか。
初めてフウ――風神剣を見たのは七歳の時。つまり約十年の付き合いということになるだろうか。
思えば長い付き合いだ。ちょっとした表情や態度の違いが分かってしまうのだろう。
「…………」
ハエンは躊躇う。話してしまえばもうその運命が確定してしまうような気がして。何よりフウがどんな反応をするのかが怖くて。
しかし、話さないわけにはいかない。何者にも代えがたい親友として、誰よりも心を支えてくれた大切な存在に。
「俺、明日この屋敷を出ていくことになるかもしれない」
――
――――
――――――長い沈黙が場を支配する。
フウは何も言わない。まるでただの剣になってしまったかのように。
もしフウが剣ではなく人間だったのなら、果たしてどんな表情を浮かべているのだろう。
「今日、兄上に呼び出しくらったんだ。明日兄上と勝負をして勝たなきゃ、俺は追放だってさ」
『…………』
「はっきりと言われたよ。『無能のお前がいるだけで家名に傷が付く』んだと。悔しいけど……何も反論できなかった」
『…………』
「実際、俺は何もできないしな。父上のように立派に務めは果たせないし、兄上のように強くもない。正直、伯爵家なんて俺には不釣り合いだって事も分かってた。……ああそうだ。分かってたさ。いつかこうなるって事くらい……分かってたんだ…………」
ハエンは口をつぐむ。声が震えないように抑えるのも、涙が溢れないようにこらえるのも、これ以上喋ると限界を迎えそうだった。
『……ボクを使いなよ、ハエン。勝負に勝てばいいんでしょ?ボクを使えばきっと勝てるよ』
「馬鹿言うな。お前はエーデリック家の当主だけが振るうことを許された古代遺物なんだ。そんな事して勝ったって、兄上が認めるもんか。俺の……俺自身の力で勝たなきゃいけないんだ」
『じゃ、じゃあ今から特訓しよう!そうすればきっと……』
「無理だよ。今更特訓したって、俺じゃ兄上の足元にも及ばない。実力差がありすぎるんだ。今から何をしたって無駄なんだ。……無駄なんだよ、フウ」
アスタルがその場でハエンを屋敷から追い出さずに勝負の話を持ちかけてきたのは、決して慈悲などではない。あえて時間を開けることでハエンが絶望する顔を拝むため、そして無駄な努力をする姿を嘲笑うためだろう。
「……ごめんな。俺がもっとしっかりしていれば、こんなことにはならなかったのに……ごめんな……」
『ハエン……』
明日が来るまで、せめてこうして唯一の親友と少しでも長く一緒にいる。それが残り少ない時間でハエンにできることの全てだった。
ハエンが持つ特異技能――その名は〈精霊回帰〉。
それは一つ、重大な問題を抱えている。
それは――
――その技能をどのように使うのか、それが一体どういう効果をもたらすのか、ハエンですら何も分からないということだった。