第60話 アリシアの心変わり
先に座ったアリシアに続いて、その隣にゆっくりと腰を下ろす。
座ってからしばらくの間は、互いに一言も言葉を発さない無言の状態であったが、不思議と居心地の悪さや気まずさといった感情は無い。そんな沈黙の中、先に口を開いたのはアリシアであった。
「あたし、お姉ちゃんと仲直りしようと思います」
真っ直ぐ暗闇を見つめて、水の弾ける音に掻き消されてしまいそうな微かな──だが、俺の鼓膜にしっかりと届くような声音でアリシアは言葉を置いた。
「俺としては凄く嬉しいけど、何か心変わりする出来事でもあったの?」
「皆さんに、これ以上気を遣わせてしまうのが心苦しいというのもありますが……そうですね。リオさんとお話ししていて、これ以上エランスズ家や、それを含めた過去に縛られるのは嫌だなって、そう思ったんです」
「……それに関する話ってしたっけ?」
「いいえ、直接的には。ですが、色々考えるきっかけになったので」
アリシアは、座っていた場所からひょいっと体を起こすと、俺の前に立ち深々と頭を下げて、
「だから、全部含めて今ここでお礼をさせてください。あたしやお姉ちゃんの見えないところでたくさん働きかけてくださっていたのも、些細な部分の配慮や気配りも、本当に助けられました。ありがとうございます。それと、ごめんなさい」
そのまま頭は上げずに、俺からの返事を待つアリシア。よく見れば、その小さくて華奢な体はほんの少しだが震えていた。
「頭を上げてアリシア。俺に謝る必要なんてこれっぽっちもないよ。ありがとうって、そう言ってもらえただけでお釣りがくる」
「はい、ありがとうございます。ふふ、やっぱりリオさんは優しいです!勇気出してこの学園に来てよかったなぁ……」
「俺の方こそ、フィルニア学園に来てアリシアと出会えて本当に良かった。学園入ってもエルフの、それも女の子とは一生口をきけないと思ってたから……」
「王女様と契約を交わしてる契約者のヒューマンがですか?」
「あれは……一から十までシエラに助けてもらった結果だから」
「でも、この前シエラさんとお話した時に言ってました!『リオは凄いヒューマンなのよ!他の誰とも違うわ!』って。リオさんにとって特別なように、シエラさんにとっても特別なのではないでしょうか?」
「そうだと良いんだけどなぁ……どっちにせよ、俺がもっとしっかりしないと」
「リオさんは十分しっかりしてると思うのですが……」
不思議そうにそう言ったアリシア。気恥しさから俺は、その紅い瞳から視線を逸らしてしまう。
全く心当たりはないのだが、アリシアの俺への評価がとても高い。もちろん、嬉しいことはあれど困ることはないため、単純に有難いのだが本当に何故だろう。今度聞いてみるか。
「それにしても、この時間までファルネスさんとミラさんは何してるんだろうね。もう帰ってきてるのかな?」
「あたし達には伝えられない、秘匿の任務とかでしょうか?最強の妖精剣士と言われるほどのペアですから。もしかしたら、ファルネス先生とお姉ちゃんの帰りとすれ違ったかもしれませんね」
「ファルネスさんとミラさんを動員させるほどの任務、か。この街で一体何が起こっていることやら」
「状況は激しく動いていますが、あたし達には分からないことばかりですからね。突然変異体の存在ももちろんですが、この街全体が異様な雰囲気に包まれてると言いますか……」
「ミルザさんが施行している隔離政策も、あまりにも急すぎるしね。本当、分からないことだらけだよ」
頭上に広がる夜空や煌めく星々の見え方さえも、イリグウェナと何ら遜色がないのに、どうしてこんなにもこの街には陰りがあるのだろうか。表面上は、輝かしい賑わいに人々の欲望や好奇心を煽る、急発展を遂げた大きな娯楽都市なのに。
「ですが、ファルネスさんはもちろん、ネルウァさんもリオさんも凄く強いからきっと大丈夫ですよね!」
「う~ん……俺達二人は、死ぬ気でファルネスさんの足手まといにならないように動かないとって感じだからなぁ……。肩を並べて分かったけど、ファルネスさん相当動きの質を落として連携取ってくれてるし……」
「ま、まぁ……熟練の妖精剣士と学生では、やっぱり練度や戦闘経験の差はありますよ!そんなに自身のことを卑下する必要も無いかと……」
「それにさ、俺はこれでも剣術の腕にはそれなりに自信があったんだ。だけど、結果は温室でぬくぬくとしているだけだと思っていた官僚の娘──ネルウァに、努力の値ですら負けてた。それはネルウァの洗練された剣術を見れば分かる。あれは完全に我流で、五年とかそこらで身につくものでもないからね」
「そんな……リオさんも……うぅ……」
俺が皮肉交じりに語った弱音を聞いたアリシアは、自身のことでは無いのに唇をきゅっと結び、悲しそうな表情を浮かべている。
俺はそんなアリシアの顔を見て、紅髪の美しい妖精の女の子にこんな表情をさせたくて夜の街に連れてきたわけではなかったのにと、身勝手な罪悪感に駆られて情けない笑顔を貼り付けた。
「って、弱音ばっか言ってても仕方ないんだけどね。俺には最高の妖精剣がいてくれるわけだし、ネルウァにもファルネスさんにも負けてられないからな!」
「その意気ですよ!!……て、あたしがこんなことを言うのもおかしな話か……あはは」
「いや、アリシアが俺にそう感じているように、俺だってアリシアの言葉とか姿に元気付けられてるんだよ。さっき有難うってそう言ってくれたけど、俺の方こそちゃんと言葉にしなきゃね。ありがとうアリシア」
「そんな……あたしは何も……」
既視感を感じさせる会話を繰り返し、頬を赤らめて俯いてしまったアリシアに釣られてそっぽを向いた俺。
再び降り立った短い沈黙の中、くしゅんと小さなくしゃみをしたアリシアは、恥ずかしそうに月光に照らされて更に艶やかとなっている紅い髪の毛先をくりくりと弄った。
「やっぱりその恰好じゃ寒かったでしょう?」
「そ、そんなことありません……」
「強がるなぁ……」
「強がってませんから!あ、もうっ!笑わないでください!!」
微笑ましいその姿に思わず笑みを漏らすと、バカにされてると思ったらしいアリシアは唇を尖らせて軽くいじけて見せた。
「そろそろ帰ろっか。ファルネスさんもミラさんももうあの家に着いてるだろうし、このままじゃアリシアが風邪ひいちゃうし」
「ずずっ……うぅ……風邪なんて引きませんあたし」
「鼻をすすりながら言われてもなぁ……」
ひょいっと座っていた場所から腰を上げて帰路へと歩き出す。その後ろから、頑なに寒いことを認めないアリシアが鼻を一生懸命にすすりながら付いてきている。
「あたし帰ったらすぐ、お姉ちゃんと仲直りします。もしまだ帰ってなかったらずっと待ってでも。じゃないと、明日にはその勇気が出なくなっちゃいそうで怖いから……」
「そっか。なら、俺も寝ずに待ってようかな。この時間から一人で起きててもつまらないでしょ?」
「リオさんにそこまで付き合わせてしまうのは申し訳ないですが……嬉しいです。本当に、本当にありがとうございます!!」
ほんの少し駆けて俺の横に並んだアリシア。この時の薄い白光が反射した美しい純白の肌とその笑顔は、この世のものと思えないほどに芸術的で華麗で、それでいてどこか寂しさを含む儚さの宿った艶麗な表情であった。
そして、夜が醒めるまでファルネスさんもといミラさんの帰りを待った俺とアリシアだったが、結局その日二人が屋敷に帰宅することはなく、テオドシウスに来てから初めての曇天と激しい雨は、さながら明るかったこの先の展望を覆い隠す真っ黒なカーテンかのように思えた。