第59話 善悪のあるところ
「やっぱり……夜は、少しだけ冷え込みますね」
「そんな薄着で出るからだよ。誘った手前風邪ひかせるわけにもいかないし、ほら。これ着て?」
「いえ……そんな。リオさんの体が冷えてしまいます」
「俺はまだ着てるから大丈夫」
そう言って、重ね着している下の服を引っ張り出す。それを見たアリシアは、申し訳なさそうにぺこりとお辞儀して、
「それじゃあ……お言葉に甘えて……」
手渡した上着を受け取り、ゆっくりと袖に腕を通した。体の大小の違いから、少しダボッとしていたが気になるほどではない。
「とっても……暖かいです。ありがとうございます」
柔らかな笑顔を浮かべながら、ブカっとしている袖を華奢な指で握るアリシア。
昼間は、太陽の明るさに劣って灯りとして認識できない、特別な光源を宿す鉱石が埋め込まれた街灯も、この闇の中ではその存在感を示すように炯々《けいけい》と揺れている。
日差しがその顔を覗かせている時間帯は、必ずと言っていいほど人がいるこの通り。その足取りが途絶えてる事は見たことがない。だからこそなのだろう。薄暗く、微かな人影の一切が見受けられない今、この場所には異様な不気味さとどんよりとした空気が染み付いていた。
「少し行ったところに小さな噴水があるから、そこまで歩こうか」
「分かりました。こんな真夜中に出歩いてると、何だか悪い事をしてる気分になっちゃいます。ふふ、ちょっと楽しいかも」
「確かに謎の背徳感があるよね。別に悪い事してるわけじゃないのに。まぁ、深夜俳諧って良い事ではないんだろうけど」
「……良いことではないけど悪いことでは無い、ですか。善悪って言葉以上に曖昧ですよね。本当、嫌になってしまうくらいに」
特に深い意味は無く口にした一言に、意味深な文言を残すアリシア。隣を歩いているその表情には、心なしか曇り気があったようにも感じた。
「……というと?」
「悪い事はしていない。けれど、決して褒められるような事でもない。じゃあ人は、あたしとリオさんのこの行動をどう評価するのか。それって十人十色、全員が違いますよね?」
「まぁそれは、当然と言えば当然だとは思うけど」
「自分の行動の結果……善悪に至るまでが他人の評価に一存される。自分が正しいと思った事でも捻じ曲げられたり、時にはその他大勢から糾弾されて人格や存在までもを否定される」
顔色一つ変えないまま、アリシアはただ淡々と言葉を紡いでいく。その様子はまるで、俺の知らない誰かに対しての罪の羅列のような。もしくは、俺の知らない誰かに対して救いを乞うているような……。
「そうですね。一番分かりやすい例は、戦争かもしれません……ちょっとだけ変な話をしていいでしょうか?と言っても、もう十分すぎるほど変な話をしているのですが……」
「是非聞かせて。読書好きっていうのは元々、そういう哲学的な話が大好きな人種なんでね」
「哲学のような崇高なものじゃないですが……あたし達が今戦争しているのって、魔族──いえ、そもそもは魔王じゃないですか?大陸の国土や、ヒューマンとエルフの尊い生命を侵害してくる略奪者」
「…………うん」
「それ自体には全く異論は無いんです。殺さなければ殺されてしまうのは理解しているし、そのためにネルウァさんの剣として戦えている事は誇りに思っているので」
「ふむ」
「だけど……本当に、本当に時々脳裏に過るんです。魔族にも、人やエルフを殺さなければならない理由があって、守るべき何かがあって、戦争によってそれを主張しているんじゃないかって。もちろん、あたしがおかしいのは承知しています。ですが、略奪者なのはあたし達も同じで、見方を変えれば善悪なんて簡単にひっくり返ってしまうんじゃないかって」
単純に感情が荒ぶっているのか、それとも並々ならぬ思いがあるのか。語気に勢いのあるアリシアは、少し震えた声音で言った。
「それは……妖精剣士の存在意義を揺さぶるような提言だね。少し、危な気を感じるくらいには」
「そう……ですよね。魔族を絶滅させるための妖精剣士なのに、どっちが悪なのか分からない、なんて。あはは、本当に何言ってるんでしょうねあたし」
力無く笑ったアリシア。
実際、家族を殺されてその復讐のためにフィルニア学園に来た俺にとって、誰がなんと言おうと魔族は悪だ。悪でしかない。
ただ、幼少期を思い返してみれば、父さんや母さん、兄さんが魔族によって惨殺される前から、俺は魔族を悪いモノだと認識していたと思う。それが正か否かは関係なく、そう教えられていたから。自分の意思介入の余地なく、寸分の狂いなく俺は魔族を悪だと決めつけていた。そこに、一切の違和感などは感じずに。
「アリシアは、妖精剣であることに罪悪感を感じてるの?」
「い、いえ!決してそういう訳ではないんです!言った通り、ネルウァさんの剣であることには誇りを感じていますし……」
「そっか。何となくだけど話してる時のアリシア、何かに助けを求めてるというか、恐怖に圧迫されてる気がしたから」
「……ッ!あ、あはは……喋り方が弱々しいのはずっと指摘されてきたんですが、中々治りませんね……」
ぎこちない苦笑で、肯定もしなければ明確な否定もしないアリシア。俺は、真上に広がる夜空に視線を向けて口を開いた。
「アリシアが言った通り、善悪に文字の意味ほど固定した意味合いなんて無いだろうね。たださ──」
「……はい」
「争いにおいては、負けた方──つまり、弱者が悪になるのだけは絶対だよ。どれだけ大衆に通ずる善を主張していても、負ければそれは悪として歴史上に名前が残る」
「弱者が……悪」
「うん。だから、正しいことをしていたいなら、勝ち続けること、強者であることが条件なわけだ。それが絶対の善だと、俺は思う」
「…………」
アリシアは、 しばらく何かを考え込むように黙り込んでしまう。
つらつらと持論を語り終わって、隣で真剣な面持ちを浮かべる赤髪の妖精の横顔を見ていたら、俺の吐いた言葉はアリシアの疑問に対する回答とはあまりにも論点のズレている、話している側の自己満であることに気付き謝罪を入れようと思ったが、アリシアはクスッと気の抜けた笑いを漏らして、
「確かにそうですね。こんな単純なことに悩んでいたの、本当にバカみたいです。善いモノの皮を被っていたいのなら、それを突き通せる立場にいるしかない。とても、とても簡単なことでした」
「あぁ……まぁ、俺の中の一つの意見として受け取ってね?」
「はいっ!素敵な意見、ありがとうございます!」
頬を緩ませて、嬉しそうに頷いたアリシア。話の的を得た事など何一つ言えていないと思うのだが、まぁアリシアが満足してくれたならそれに越したことは無い。
深夜にするには少々重たい話題をしている内に、いつの間にか目的としていた噴水の前にやって来ていた。
円形に囲まれた石造りの比較的大きな噴水。緩やかに噴出した水が、下に張られている水面に滴り波紋するその音は、靄のかかった俺の脳内を一気に爽やかにしてくれたように感じた。




