第37話悪と正義と、神と救いと。
まず初めに、このお話は、『大聖堂フーガ』というパイプオルガンの楽曲を聴きながら読んで頂けると、情景と結びつきやすく物語への情緒的移入がしやすいかもしれません。
無数の人や妖精が日々見渡している蒼い空の、さらにその上。甲高い音色が周期的な音調を刻み、まだ誰も見たことのないような天空へと、突き抜けるように響いているその鐘の音は、今いるこの場所がどこかの教会であることを俺に知らしめるのには十分だった。
フィレニア学園に来てからというもの気絶して倒れることは度々あったが、一日に二回も意識が闇に放られることは果たしてあっただろうか。しかも、激しい戦闘によるものではなく、一回目は二人の妖精の胸に顔を圧迫されたことによるほぼ窒息での気絶、二回目は背後から加えられた謎の衝撃による単純な気絶。後者に関しては、今も尚事の経緯が分かっていないのだけれども。
「──ここは、様々な美が横行しているこの街で私が最も気に入っている場所。神という不確かな偶像に救いなんて求めない。でも、この空間だけは身分も、性別も、生命としての種類も、何もかもが等しく神の前で平等になる。それが、生きとし生ける者たちが共通させた真理なのだから」
メディナ様の厳かな声音が、空間によって反響を含み俺の鼓膜を揺らす。しかし、いつ自分が目を覚ましたのかも分からない程にぼやけた俺の頭では、何を言っているのか一つたりとも理解することはできないわけだが。
「正義とか悪とか……一体どこの誰が決めたんでしょうね?神が一番最高位のはずで、その神は皆が平等と謳っているのに、その神が信愛する子供達は誰が味方で誰が敵なのかを区別する」
「…………」
「結局、神様の存在も善悪の区別だって、全てが個人の自己満足でしかない曖昧なものだと思うの……理想と現実の対比とも言えるわね。なりたい自分と、本来の自分。本当の意味でこの世界に救いなんてあるのかしら?」
妖精の女王は自らの胸に両手をかざし、提起した問題を自問自答するように、また、何かを深く心に戒めるかのように空虚へと言の葉を残す。
しばらくメディナ様が無言でこちらを見つめていたため、先程の問いが自分へと向けられていたことに気付いた。
拉致するために気絶させて、今さっき起き上がったばかりの相手にする質問にしては少々内容が難解すぎないか?とは思いつつ、真っ直ぐな瞳に当てられた俺は感じたことをそのまま口に出す。
「救いは……あると思います。少なくとも俺は、ユメルやシエラと出会えて様々な形で救われましたから」
「ふふ、そういうことを聞いたわけではなかったのだけれど……」
「ご期待に沿えず申し訳ありません」
「もう、そうやってすぐ堅っ苦しくなる!良いのよ謝らなくて。むしろ、シエラの契約者になる子がこの質問に、救いなんてありませんなんて夢のないことを言ったものなら、即刻契約を解除させてたわ」
メディナ様はそう言い冗談めかして笑っているが、俺としては微塵も笑えたもんじゃない。ぼんやりと答えた内容が、そこまで大きい意味を持っているとは思っていなかった。
突如として現れた運命の分岐に冷や汗をかきながら空唾を呑んでいると、そんなのは露知らずといった様子のメディナ様が柔らかい笑みを浮かべながら続ける。
「ところでリオ君、ここがどこだか気にならない?」
「……気になります、とても。それに、何故俺だけがここに連れてこられたのかも」
意識を取り戻してからずっと隈無くこの空間を見回していたが、一向にシエラの姿が見えない。実の娘に手を掛けることは恐らく無いと思うが、契約者としては失格も良いとこだし、どうしても心配が勝ってしまう。
「シエラの安否なら安心して。実の愛娘に乱暴したりしないわ。あなただけをここに連れてきた理由はそうねぇ……二人だけの秘密のお話をしたかったから、かしら」
「秘密の話……ですか?」
「えぇ。でもその前に、ここがどこかって話だけれど──」
言いながら、メディナ様は右手を天に掲げ華奢な指をパチンと鳴らした。
すると、今しがた俺の意識を覚醒させた甲高い教会の鐘が、再びその堂々たる響きを露にして空気を震撼させる。
「ここは、神トニウェラ──ヒューマンとエルフ、それに魔族の特徴を一つずつ持つと言われている平和の神を祀った聖堂。ここではどんな争いも全て不可侵とされる絶対安寧の聖域、ヴィル=マニギア大聖堂」
「でも確か、ヴィル=マニギア大聖堂は神官とか聖職者でないと入れないのでは……?」
「うふふ、私を誰だと思いで?」
宗教と政治は複雑に絡み合うと聞くし、神聖な妖精の王族という意味でもメディナ様がこの場所に踏み入ることが出来るのは納得だが、だからといって俺も入ってしまって良いのだろうか。
「それにしっかりと許可は取ってるから安心して。昔は良くここの、美しいステンドグラスからの木漏れ日とか静かな空気を吸いに来てたんだけれど、女王になってからは立場上中々来れなくなっちゃってね」
「……は、はあ」
「ほらほら、すっごく綺麗じゃない?特にこのオルガンの音色とか!」
「オルガンの音色……?」
オルガンも何も、この場所に音なんて……。
そう言いかけた時、意識をそちらへと集中したからだろうか。不意に流麗なパイプオルガンのメロディが聖堂内を埋め尽くさんとばかりに広がっていくのに気付く。パイプオルガンなんて人生で一度も聴いたことが無いのにもかかわらず、俺はこの音の正体がそれだと認識できる。何とも奇妙だが、それでいて非常に心地良い。
「不思議よねぇこの音。誰かが弾いているわけでもない、どこから流れているのかも分からない。だけれど、古から今日までこの音が止まったことは一度たりともない。まるで、このヴィル=マニギア大聖堂そのものに大きな魔術がかけられているみたいに」
両手を祈りの仕草に絡ませたメディナ様は、恍惚な様相で祭壇に向かって言い放つ。
確かにこれは聞き入ってしまうのにも納得だ。情緒が情熱的に奮い立たされたかと思ったら、急に不安を煽られるような。荘厳でいて、どこか絶望が垣間見えるような。
「どう?気持ちがグチャグチャになるでしょう?この感覚がとても好きなの。何かに縋ってただじっと、いつか救われるのを信じて祈っていたくなる。行動を起こさなければ、現実は何一つ変わることなんてないのに」
「……とても、お強いんですね」
「……強くなんてないわ。希望の探し方が分からなくなってしまっただけ」
俺とメディナ様の間にしばらくの沈黙が降りる。その間に聞こえるのは、指揮者が指揮しているかのように精密でただ悠然と奏でられている美しいオルガンの響きのみ。
「ごめんなさいね。何だか変な空気になっちゃった」
沈黙など一切気にせずに演奏を聞き入ってしまっていたのだが、この妙な空気感に気を遣ってくれたのだろう、無言を破るようにはにかんで笑うメディナ様。
「いえ……美しいオルガンの音に魅入っていたら言葉が浮かばなくて……」
「ふふ、リオ君にこの音の素晴らしさを知ってもらえて嬉しいわ。……それで本題の、シエラだけを残した理由と二人だけの秘密の話なんだけれど……」
「……はい」
「リオ君は、そもそも何でシエラが妖精剣士の妖精剣になろうと思ったのか……その理由を知っているかしら?」
「そういえば、俺自身の経緯は話したことがあったけど、シエラのは聞いたことが無かったかも……」
「やっぱり……全くあの子ったらそういう肝心なことは全然話さないんだから」
メディナ様は頭部に手を当て軽く嘆息をつきながら、口を開き話を続ける。
「では、まずはそこからお話し致します。これはあの子の契約者として知っておくべき過去であり、私が親としてできる最後のお節介なのですから──」




