口噛み酒
怪しい居酒屋があった。
仕事の都合上、車で近くをよく通るのだが、お店は人通りの少ない山道にあり、とても利益が出るとは思えない。でも、なぜかつぶれずに残っている。とても怪しい。
試しに行ってみようと思ったのが、先日のことである。
夜の10時。辺りの静けさも相まって、その居酒屋は異様な雰囲気が漂っていた。
ガラガラと扉を開けると、店内は思っていた以上に狭かった。
そして、なにより汚い。
「いらっしゃいませ。お客さん、ひとりかい?」
お店の奥から、腰の曲がったおばあさんが出てきた。
「はい。ひとりです。」
「どうぞ、こちらへ。」
僕はテーブル席へ案内された。
「うちはね、日本の居酒屋で唯一、口噛み酒を提供しているんだよ。飲んでみるかい?」
「口噛み酒・・・ですか?あの、アニメ映画に出てきたあれですか?」
「あたしゃあ、あんたみたいに若くはないから。そのアニメ映画とやらは知らんけど。わざわざ他県から飲みにくるお客さんもいるくらいだから・・・おすすめだよ。」
――ここって案外有名なお店なのか!?
他県から来る人がいるくらいだ。飲んでみたい。
「じゃあ、口噛み酒をお願いします。」
「あいよーー。」
頼んでしまった後だから既に遅いのだが、本当に飲んで大丈夫なのか不安になった。口噛み酒である。その名の通り、口で噛むことで発酵させて作るお酒・・・だと思う。あの映画ではかわいい巫女さんが作っていたが、まさか、このお店でも・・・。
「おまたせ。はい、口噛み酒だよ。」
目の前に置かれた枡には、白くてどろっとした液体――口噛み酒が入っていた。
小さな泡が表面に覆いかぶさっている。いろいろ想像していたせいで、眺めるばかりで手が動かなかった。
そんな様子を見てか、おばあさんが僕に声を掛けてきた。
「飲まないのかい?」
「あ、いや、すいません。その・・・ちょっと怖くて。」
「怖いって、何が怖いんだい?」
「口噛み酒って言っていたじゃないですか。その・・・これもやっぱ人間が噛んで作ったお酒なんですよね?」
おばあさんは、急に大きな声で笑った。
「いや、すまんすまん。冗談じゃよ、冗談。あまりにもお前さんが聞き分けが良すぎるもんで黙っていたけども。これは人が噛んで作ったお酒じゃないよ。」
「そ、そうですか。・・・ですよね。さすがに人が噛んだお酒は提供できないですよね?」
「そんなの決まっとるじゃろうが。安心して飲んでみなさい。」
――ゴクッ
ひと口飲んだ瞬間だった。頭の中で何かが爆発するような衝撃が走る。
なんだ、この強いお酒は・・・。
「ひっかかったね。ばーか。ばーか。」
その声は、さっきのおばあさんではない。もっと若々しい。20歳前後の娘の声だ。
「あたしお手製のお酒を飲んだからには、もう動けないわよ。またひとりいっただき!」
僕は、そこで気を失ってしまった。
目が覚めると、僕は家の布団に横たわっていた。
――み、水・・・
口の中はカラカラだった。コップ一杯の水を一気に飲み干して、それからあれこれと考えた。
夢だったのだろうか。いや、そんなはずはない。確かに、僕はあのお店でお酒を飲んだ。それで気を失って・・・どうやってここまで帰ってこれたんだろう。
財布の中身も確認したが、特に盗まれているものは何も無さそうだった。
――全く、何だったんだろう。
後日。再び仕事でその居酒屋の近くを通ったが、まだ営業していることが分かった。
またいつか、行ってみるかもしれない。
読んでいただき、ありがとうございました。