ブラザーズコンプレックス
私はブラコンだ。自他共に認める程に強烈なブラコンだ。だがしかし、それがなんだというのだ。
四限終了まであと二分。私は自分の机の横にぶら下がっている鞄からランチバッグを取り出した。それを鞄の横に下げる振りをして、手に握っておく。椅子をそっと下げる。後ろの机にぶつからない程度にギリギリまで後ろにずらして、重心を前に。脚ははしたなく開いてしまうが仕方ない。最後の板書は諦めた。なんだかんだどうにかなるだろう。
大きな音が響く。終礼のチャイムだ。先生が授業の終了を告げる。
「起立」
級長のやる気のない声。ガタガタと音を立てて皆が立ち上がる。私の手には当然のようにランチバッグが握られている。
「礼」
頭を下げた瞬間、扉がけたたましい音を立てた。何故かって、簡単だ。私が思いっ切り扉を開けたからだ。扉の横っていうのは有利だ。私は先生にほんの少しばかりの敬意を示した形ばかりの礼を切り上げ、ゴム底を遠慮なく鳴らして、勢い良く一歩目を踏み出した。
後ろは見ない。多分先生なんかは呆れていると思う。知らないけれど、どうでもいい。今しなくてはならないのは、後ろなんか振り向かず全力で前へ進むこと。私達の教室は最悪なことに目的地の一番端にある。その上、この廊下は食堂へと向かう学生達で満ち溢れている。早くしないと人気のメニューがなくなる、と急く学生がこちらに向かってくる。私達のクラスが食堂に近いのも考え物だ。私は学生達を擦り抜けて目的地へ走る。こういう時、小柄だと便利だ。陸上部に誘われたこともある脚を全力で活かして、私は走る。本物の陸上部に負けないように。後ろから気配を感じる。私を追って、追い越そうとする気配を。だから私は駆ける。全力で、追い付かれないように。向こうは直線で走る事は専門だけれど、人混みでは小柄な私の方が少しばかり有利だ。
目的地は目の前。私は廊下の一番奥、私達の教室から一番離れた教室の扉に手を掛ける。今日は私の方が早い。相手の手が掛かる前に扉を勢い良く開いた。良い音がした。思い切り一歩踏み込めば、学生達は全員綺麗に着席していて、もっと言えば、教卓には先生が居て。
「まだ授業は終わっていないのですが」
私ともう一人はすごすごと退散するしかなかった。
無駄に延長した授業を終わらせた兄を待って、私は母が持たせてくれたお弁当を三人で食べながら考える。私の兄のこと、兄の友人という、こいつのことを。私はブラコンだ、それは認めよう。私の兄は頭脳明晰で運動神経も良く、更に言えば控えめに言っても美形だ。両親揃って頭も顔が良く、それを運良く受け継いだ私達は小学校、中学校と、簡単に言えばモテた。でも私は私や兄以上に完璧な存在を求めたし、兄は恋愛には興味がないようだった。しかし私は何度も口に出して言うが、ブラコンだ。兄と釣り合わない相手なんか、絶対に兄と付き合わせる訳にはいかないのだ。勿論兄が好きになった相手なら仕方ない。兄が選ぶなら良い。けれど、相手に兄を選ぶ権利なんかない、ずっとそう思っていたし、今もそう思っている。だから全力で兄を好きな女の子のことは妨害し続けたし、なんならそのせいで女友達なんか一人もいない。ついでに言うなら男友達もいない。でもそれで良いのだ、私がそうしたかった結果、そうなっただけの事実なのだから。
さて、話を目の前のこいつに戻そう。確かに頭は良い。兄は理系特進だが、こいつは私と同じ文系特進クラスだ。そして一年生にして陸上部のホープだということも知っている。明るくてコミュニケーション能力も高い。そしてもっと言えば、顔だって文句無しに良い。誰だってこいつの顔に文句なんか言えないだろう。私もそうだ。それに、兄のことが好きなのも心からのことだろう。でなければ、私と毎日昼休みになる度に先生に嫌な顔をされながらデッドヒートを繰り広げることもない、と思う。でも、一個だけどうしても、どうしても許せない欠点がある。それは、こいつが男であるということ。こいつが女なら、流石の私でも付き合うのを許してやれるのに。だから下手な動きをさせないように、私が監視するしかないのだ。
私は無言で卵焼きを口に運ぶ。兄はあまり口数が多くない。けれど、奴が話題を選んでポンポンと話し掛けるから、客観視すればコミュニケーションは成立している。もっと言うなら、私が二人の邪魔をしているように見えるだろう。でも、人からの目線なんか気にしていたらブラコンなんかやってられない。毎日全力疾走して、兄とこいつが二人で食事を取るのを邪魔して。そもそもこいつはどうしてこいつは兄と知り合ったんだか、私は全然知らない。部活も違うし委員会も違う。でも知ろうともしていない。私達はライバルだから、馴れ合うこともないから。それに、結局理由なんかどうでも良い。毎日毎日、私達は全力で走っている。ただ私は、兄が真っ当な道に進んでくれる為に毎日努力するしかないのだ。
「それさ、そいつお前のこと好きだから兄貴にちょっかい出してんじゃねぇの?」
とある放課後、私が『何故奴は兄に執着するのか』と口に出した時、私の『知り合い』はそう言い放った。彼は私の友人ではない。私が一方的に彼の弱みを握っているだけで、きっと向こうはこちらを友人だなんて思える訳がないだろうから。私が気まぐれに声を掛けて、誰もいない教室で気が済むまで話をしてもらう、そういう関係。
「そんな訳ないって。一緒に居れば分かるもん。今度四人で昼食べてみる?」
「冗談。学年でも有名なお前らと飯なんか食ってたらもっと面倒事が増える」
こいつもある意味有名人だ。ハーフなのだと聞いているが、白い肌に淡い色の瞳、髪色は明るい茶色で、それが地毛なのは生え際を見れば分かる。私と兄が正当派和風美形、例のあいつがアイドル系イケメンだとすれば、こいつは美術品のような美形なのだ。但し基本的に目付きは悪く、柄も口も悪い。頭は、うちの高校に来るレベルだから悪くはないと思うが、本人曰く『英語がほぼネイティブだから運良く入れた』だけらしい。見た目で随分と『面倒事』があったらしく、本人は孤高を気取っている。本人曰く友人なんか一人しかいないそうだ。まあ、私と出会ったのが運の尽きという奴なんだろうけれど。
「とにかく、絶対にあいつは兄さんのことが好きなんだってば、間違いないって」
私の意見に反論する気が失せたのか、目の前の男は少し悩んで、口を開いた。
「じゃあそれが事実として、猛アピールの結果その兄さんがそいつのこと好きになったらどうすんだよ」
私は悩む。兄が奴を選んだとしても、だ。この世界はまだまだ同性愛には偏見が付き纏っている。きっと幸せとは言い難い人生を送る羽目になるだろう。それは嫌なのだ。兄には幸せな人生を歩んでもらいたい。
「だから、兄さんにあいつを好きにならせないようにしてるんじゃない!」
私の言葉を聞いて、聞いてたこいつは呆れたように肩を竦めてみせた。馬鹿にされてるのがありありと分かったので、私はその白い頬を思い切り摘んで引っ張ってやった。
「痛えって」
「痛くしてんのよ」
文句は聞き流しつつ、気が済むまで頬を伸ばしてやった後、手を離す。辛そうな顔をしながら両頬を押さえるさまは本当に美術品のように綺麗だ。
「どうするよ、痕でも残ったら」
「賠償するわ」
恨み言に簡潔に答えれば、彼は笑った。いつも笑顔なら、きっと友人なんかいくらだって出来るだろうに。顔は勿論、根も文句無しに良い奴だから。友人が一人しかいないだなんて、嘘みたいだ。
「そういや、あんたの唯一の友人って、どんな人なの?」
ふと思った疑問を口にすれば、目の前の美貌は目を丸くして、それから呆れたように笑った。
「本気で言ってんのかよ」
「何よ本気で何が悪いのよ」
はは、と奴は声を上げて笑う。これも多分馬鹿にされているのだと分かった。だから今度は肩に一発グーを決めるだけにしておいた。
「何がおかしいの」
「いや、それがわかんないなら、きっとそのライバルのことだってわかってないんだろうなって思って」
奴は笑っていた。
「お前にとって、俺ってなに?」
その問いに、私は悩んだ。簡潔に言うなら、これだろうか。
「脅迫の被害者?」
奴の美しい笑みは腹立たしいことに全く消えやしなかった。
「ほら、やっぱりお前なんもわかってないよ。兄貴以外の自分のこともちゃんと見てみろよ」
そう言われても、私は兄が全てだし、自分なんかどうでもいいのに、と思う。趣味もない、友達もいない、敢えて言うなら親から運良く引き継いだ顔と頭しか取り柄のない、つまらない人間だ。周りだってそう思ってるに違いない。そう言えば、彼は少しばかり悲しそうに笑った。なんでだろう、私は事実を述べたまでなのに。
「少なくとも、お前には友人はいるよ。俺が保障する」
私には心当たりなんかなくて、首を傾げるしかなくて。
「ほら、そろそろ部活終わるぞ」
彼の言葉を聞いて、私は彼との密談を終える。私は兄を迎えに行かなければならないから。またあいつがいるだろうから、私は全力で駆け出した。