記憶を失くしたタビビト
「記憶喪失?」
「…はい。何故か昨日の夜の事は何も思い出せないんです。
確か夕方頃は下町の商店街で買い物をしていましたが…………その後の事は何も」
「へえ?そう」
「…自分でも怪しい事は分かってますよ…!?
確かに所在不明の人間が貴族街で倒れてる時点で怪しいのに、その上記憶喪失なんて信用出来ないのは分かります!
でも本当に覚えてないんです………!」
泣きそうな声で訴える私に薄く微笑みながら相槌を打つこの男、エリック・ダートリックは現在、ダートリック公爵邸の寝室で私を尋問している。
どうやら私は貴族街で倒れていたところを彼に拾われ、彼の住む屋敷で一晩介抱されていたらしい。
そもそも何故倒れていたのか分からないのだが、とにかく彼は私を助けてくれた。
どう見ても世捨て人の様な風貌の私が貴族街で倒れているなんて、怪しすぎて本来なら誰も近寄らないだろう。
貴族なら尚更だ。
それなのに助けてくれた彼の事を私は純粋に優しい人だと思った。
この尋問が始まるまでは。
「肝心の君が覚えていないんじゃ、助けた意味がないじゃないか…」
んん?ちょっと、聞こえてますよ?
ひどい。全くなんて事言うんだ。
少しくらい善意はないのか…!
ぼそっと呟いた彼の言葉に眉を顰める。
彼が倒れていた私を助けた事には、純粋な善意などではなく、明確な理由があった。
昨晩、仕事を終わらせ帰路に着いていたエリックに、突然謎の声が話しかけてきたそうだ。
その声はとても焦ったようにエリックの名を呼び、ダートリック公爵邸のすぐ近くの路地にエリックを誘導した。
エリックは怪しいと思いつつ、何故か行かなければと使命感に駆られ、言われるがままにその場に向かった。
そして着いた先には傷だらけでボロボロの私が倒れていたそうだ。
それだけで終われば、エリックも倒れている怪しい人間を助けようとはしなかっただろう。
どう見ても、物乞いか何かの罠としか思えなかったから。
しかし、おかしな現象はこれで終わらない。
謎の声は「その子に触れろ」と命令したが最後、聞こえなくなった。
エリックから話しかけても応答はなく、仕方がないので命令通りに私に触れたそうだ。
すると、触れた指先から眩いばかりの銀色の光が現れ、一瞬にして私の体の傷を癒してしまったそうだ。
エリック曰く、その光の正体が何か予想がついていたが、その予想は本来あり得ない事とのこと。
だからこそ何か知っていそうな私に話を聞くために助けたのだそうだ。
「…そんな事言われても私だって説明して欲しいのに」
無意識に心の声が漏れる。
私から目を逸らして文句を言っていたエリックが、私の言葉でゆっくりとこちらを向く。
「ああ、すまない。聞こえてしまったかな」
そう言ってエリックは口だけで笑む。
ああ怖い!目が笑ってないよこの人!!!
もうかれこれ2時間は尋問されているが、彼はその間ずっと仮面の様な笑顔で私を見ている。
絶対この人性格悪い。
笑顔で人を殺すタイプとは正にこんな人の事を指すのだろう。
初めて会った時は今より少しは優しかったのに。
ほんの2時間前の事だけど、彼に初めて会った時が段々恋しくなってくる。
そこまで考えて、彼に会う直前に見た夢を思い出す。
あの夢は何だったんだろう。
あんなにも現実味の無い映像だったはずなのに、どこか現実味を感じる不思議な夢。
そして直後に現れたエリックと、夢の中の少年との関係は何だろうか。
夢の中の少年がエリックなのかとも思ったけど、それは違う気がする。
エリックより幼い姿で死んでいた少年が、生き返って今目の前にいるなんてあり得るはずがないもの。
それにあの女の子も気になる。
乱れた前髪が涙で顔に張り付いていたせいで顔がよく見えなかったけど、何故か見覚えがある様な気がした…あの子は一体……?
「…ぇ…ねぇ君!大丈夫?」
「へ?…あ」
いつの間にか自分の世界に入ってしまっていたようだ。
驚いてエリックの方を見ると、彼は急に黙りこくった私に不審な目を向けていた。
かと思えば、何かに気がついた様にハッとする。
「もしかして何か思い出したの?」
「あ、いやそういう訳じゃ…すみません」
私がそういうと、またあの仮面の様な笑顔に戻った。
何だろうこの人…意外と分かりやすい様な気もする。
ていうか今更だけど、この人暇なの?
この無意味な尋問いつまで続けるのよ。
大体謎の声とか光とか言われても知らないし、よく考えたら私が倒れていたって事自体が1番おかしな話だ。
そう、私が倒れるなんてあり得ない。
体が丈夫だからとかそんな理由ではないが、とにかくあり得ないものはあり得ないのだ。
だったら一体この状況は何?
ほんとに私の方が説明して欲しい……
もう彼を無視してこの屋敷を抜け出そうかと私が考え始めた時、彼が言った。
「はぁ、もういいよ。どうやら無駄足だったようだな」
その言葉を合図に、私の心は喜びと安堵で跳ね回る。
ああ長かった!
正直彼の予想とやらは少し気になっていたが、もうそんな事はどうでもいい。
こんな訳の分からない状況を脱せるならそんな事は些事でしかないのだ。
そんなことを考えていると、視界の端に例の笑顔をより一層濃くしながら静かに私を見ているエリックが見えた。
咄嗟に目を逸らして表情筋を硬くする。
…もしや喜びが顔に出てしまったかな?
「仕方ないでしょ!これくらい許してよ!」と言ってやりたいところだが、彼は貴族で私は後ろ盾も何も無いただの旅人なのだ。
彼の機嫌を損ねればどうなる事か想像に難くない。
私は内心腹立たしいのを露程も感じさせない為に無理矢理真顔を作った。
全く世知辛い世の中だ。
彼は私の表情を確認して、水に流してやろうと言わんばかりにため息を一つ吐いた後、静かに席を立った。
「とりあえず外まで送るよ」
「え?それは助かりますが…その手は…?」
見れば彼は私に手を差し出している。
まるでエスコートしようとしてくれているみたいだ。
「僕が送るよ」
「………そ、それは大変ありがたいのですが。その…お言葉ですが、この場合普通は使用人に任せるのではないのですか?」
彼自らなんて手厚い見送りだなぁ、と少し感動していた矢先。
「いやこれでいい。送っている間に何か思い出すかもしれないからな」
私の感動を返してくれない?
嘘でもいいから少しくらい善意を見せて頂きたいものだ。
それに、この異様な執着はなんなのだ。
そんなにその予想とやらは重要な事なの?
ついまたその予想が気になり始めるが、私はそれを全力で無視する。
ここを出てしまえば私にはもう関係ない事なんだから、気にしたって無駄だ。
私はエリックの言葉にそうですかと相槌を打ちながら、彼の手を取る。
その瞬間、彼と私の繋がれた手の隙間から銀色の光が漏れ出し、やがて私達の視界を真っ白に染め上げた。
そして私の意識は途切れた。