Cafe Shelly 似たもの夫婦
あーっ、ったく腹が立つ。またあいつはさぼりやがって。それどころか、俺に対して文句ばっかり。
「主婦はあなたが思っているほど暇じゃないのよ」
これがあいつの口癖だ。何が暇じゃない、だ。いつも家でゴロゴロしているか、友達とランチとやらに出かけてくっちゃべってるだけじゃないか。なのに家の中の掃除はしていない。晩御飯だって買ってきた惣菜ばかりだし。結婚してから二十年、何一つ家事らしいことができたことがない。
どうしてこんなのと結婚しちまったかなぁ。結婚したばかりの時は、下手なりに一生懸命料理もしてたし、家の中だってそれなりに片付けができていたんだけどなぁ。
まぁ、きっかけがなかったわけじゃない。一つは流産。妻のみゆきは二回ほど子どもを流してしまった。さらにその後、子宮筋腫となり子宮を摘出。結果、子どもが産めない体になってしまった。
そのときに俺はみゆきをねぎらうがゆえに
「好きなことを思いっきりやっていいし、休みたい時は休めばいいんだよ」
と伝えてしまった。これが間違いの始まりでもあった。結果、みゆきは徐々に家事をサボり始め、気がついたら今のような状態になってしまった。あれは失言だったな。
それに、なにが家事は忙しいだ。食器洗いだって全自動だし。洗濯機も乾燥機付きでほとんど外で干したことがない。食事だってほとんどスーパーの惣菜で、鍋やフライパンなんてめったに使わないじゃないか。強いて自分でやる料理といえば言えば、ごはんを炊くくらいだ。
おかげでみゆきの体重は増加中。結婚した当時はスラリとして、それなりにかわいらしいところがあったはずなのに。
以前口論になって、ついそのことをみゆきにぶつけてしまったことがある。だが、そのときに返ってきた言葉がこれだった。
「なによ、あなただってお腹がすっかり出ちゃってるじゃないの。それに会社の付き合いだからって、しょっちゅう飲み会に出てるし。しかも突然じゃない。だからご飯を準備したって食べてくれないから、作るのがバカらしくなっちゃったのよ」
まぁ、その反論はもっともである。俺も営業という仕事柄、お客さんとの付き合いが多くて、突然の外食になることがある。前もってわかっていればいいのだが、いきなりお客さんから誘われてしまうから。
ウチのような小さな会社では、お客さんとのつきあいを大切にしなければやっていけないというのが俺の言い訳である。
俺の安らぐ場って、どこに消えてしまったのだろう。家に帰れば、食欲のわかない惣菜と見たくもない妻の姿。せめて趣味にでも没頭すればいいのだろうが、仕事が忙しくてそんなものを持つ時間の余裕もない。
仕事は仕事でストレスがたまるし。結局、どこへ行っても心が安らぐなんてことはない。
いや、強いて言えば営業中にちょっとだけ立ち寄るあちらこちらの喫茶店。こういった場所が俺の心の安らぎになっている。ホッと一息ついてコーヒーを飲む。趣味というわけではないが、それが俺の中では唯一の救いの時間とも言えるのは間違いない。
ということで、今日も次の客のところへ行く前に、喫茶店巡りでもするかな。ちょっと前までは五軒の喫茶店をローテーションで回っていたが、それもそろそろ飽きてきた。なので、今は新しい喫茶店を開拓しているところである。
けれど、なかなか気に入った喫茶店というのが見つからない。どこか心が安らぐところはないものだろうか。まぁ、入ってみて、コーヒーを飲まなければわからないからなぁ。
「えっと、次は中丸商事か。わりと街中だな。ってことは…」
そう思って、ふと気になった路地に入る。この通りはめったに来ない。
この通りはとても面白い。道はパステル色のタイルで敷き詰められ、両側にはレンガでできた花壇がある。道幅は車一台が通る程度であるが、人がそれなりにいて賑やかさを醸し出している。
それもそのはず、この通りの両側にはいろいろなお店が並んでいる。ブティック、飲食店、中には歯医者なんていうのもある。通るだけでもなんとなく気分が高まってくる。
ここに足を運ぶのは久しぶりだな。よく街には出てきているのに、大通りではないのでなかなか通らない。さて、この通りに喫茶店はあったかな?
通りの真ん中ほどにきたときに、喫茶店らしき黒板に描かれた看板を見つけた。
「Cafe Shelly…カフェ・シェリーか」
このとき、黒板の下に書いてある言葉が気になった。
「目の前にいる人を変えるには、まずは自分を変えてみよう」
目の前にいる人って、妻のことかな。けれど、あの性格を変えるのは至難の業だぞ。そのために自分を変えろって、どんな意味があるんだ?
まぁいい、とりあえずこの喫茶店に入ってみるか。矢印の方向を見ると、ビルの二階にそれがあるのを発見。階段を上がり扉を開く。
カラン、コロン、カラン
心地よいカウベルの響きだ。
「いらっしゃいませ」
聞こえてきたのは女性店員の声。しかもかなりの美人ときている。髪が長くて、目もぱっちり、スラリと伸びた足がいい。ウチのもこんな女性だったら文句は言わないんだけどなぁ。今じゃ真逆だ。
「いらっしゃいませ」
続けてカウンターから、低くて渋い声の男性の声が聞こえてくる。コーヒーを淹れている姿から、この店のマスターだと思われる。店員は二人か。広くはない喫茶店だから、二人で十分なのだろう。
「こちらへどうぞ」
女性店員が俺を促す。案内されたのは窓際の半円型のテーブル席。四人がけだが、一つ飛ばしたところにはすでに女性客がいて本を読んでいる。あらためて店内を見回すと、真ん中に三人がけの丸テーブル席、そしてカウンターには四人がけ。十人も入れば満席となる小さな喫茶店だが、窮屈さは感じない。
なんとなく隠れ家的な感じがして、雰囲気はいいな。それにこの席、すごく落ち着く。うん、気に入った。あとはコーヒーの味だな。
喫茶店巡りをしているだけに、コーヒーの味にはうるさい。上手な人が淹れたコーヒーは、同じ豆を使っていても味がぜんぜん違ってくる。さて、この店のマスターの腕前はどんなものだろう。
「さて、どのコーヒーを飲もうかな」
そう思いつつ、飲みたいものは決まっている。こういった喫茶店には、そのお店独特のオリジナルブレンドコーヒーというものがある。これでマスターの腕前がわかるというものだ。
メニューに目をやると、やはりオリジナルブレンドコーヒーが目につく。シェリー・ブレンドか。早速これを注文しよう。
「すいません、シェリー・ブレンドをお願いします」
早速美人の店員に注文をする。すると、これがまたいい笑顔で注文を受けてくれる。
「かしこまりました。シェリー・ブレンドをおひとつですね」
ちょうど私にお冷を持ってきてくれたところだった。置き方のしぐさもていねいだ。ホント、ウチの妻にこんな要素のひとかけらでもあればいいんだけどなぁ。
「お客さま、このお店は初めてですか?」
ふいに女性店員が私に声をかけてくれた。めずらしいな、店員から声をかけてくるのは。
「えぇ、営業をやっていて、合間の時間に喫茶店巡りをするのが趣味なんですよ。たまたまこのあと近くで仕事があるものですから。いやぁ、なんだか落ち着く、いいお店ですね」
「ありがとうございます。お時間がゆるすまで、ゆっくりしてくださいね」
ますますこの女性店員にほれてしまった。といっても浮気をするわけではない。こういう女性が妻だったら、自分の人生も変わるだろうなぁ、と思ってしまう。それだけ今の妻ができなさすぎなのだ。
コーヒーができるまではスマホで最近のニュースを眺める。営業としてお客さまに役立つ情報や雑学情報などを仕入れておくにこしたことはない。
スマホと言えば、ウチの妻もしょっちゅう誰かとメールのやりとりをしているみたいだな。ちょっとだけ浮気を疑ったこともあったが、あの容姿で浮気はないだろう。あんなのを相手にするなんて、よほどのやつだ。むしろ浮気でもしてくれて慰謝料貰って別れたほうがいいとさえ思う。
まぁ、メールの相手は奥さん連中だというのはわかっている。用もないのにわざわざ俺にメールを見せに来ることもあるくらいだから。スマホにロックもっかかっていないし、まぁ浮気はないだろう。
そんなことを思っていたら、ふたたび女性店員がやってきた。
「お待たせしました、シェリー・ブレンドです。飲んだらぜひどんな味がしたのかを教えて下さいね」
どんな味がしたのか教えてって、どういう意味だ?そう思いながらも早速コーヒーを口にする。
「うん、いい香りと苦味、さらに酸味も加わってなかなかの味だぞ」
ボソリとつぶやく。そう言わせるほど、いい味を出している。なんだかすごく落ち着く味だ。いや、安心できる味、ともいえるかな。体の力が抜けて、リラックスできる。そういえばこんな感じ、久しぶりだな。
結婚してしばらくは、我が家もこんな感じだったことを思い出した。家にかえるのが楽しみで、妻とよく将来を語り合ったものだ。
その将来がまさか、今のようになってしまうとは。時の流れはおそろしいな。できればまた、こんな感じのする家庭に戻りたいものだが。
「お味はいかがでしたか?」
女性店員の言葉でハッと我に返る。なんだか一瞬、夢を見ているようだった。
「あ、とてもおいしかったですよ。なんだか落ち着く味でした」
「ありがとうございます。落ち着くって、具体的にどんなイメージでしたか?」
「そうですね、家で妻と一緒にくつろいでいる、そんな光景をイメージできましたよ」
すると女性店員、思っても見なかった言葉を俺に返してきた。
「失礼ですけど、ひょっとしたら今、あまりご家庭でうまくいっていないのではないですか?」
「えっ、ど、どうしてそれがわかるんですか?」
女性店員の言葉にあわててしまった。私の心を見透かされている、そう感じたのだ。
「実はこのシェリー・ブレンドには魔法がかかっているんですよ。飲んだ人が今望んでいる味がするんです。だから人によって、感じる味や印象が違うんです」
飲んだ人が今望んでいる味がするコーヒー。そんなの初めて聞いた。けれど、言われたとおり私が今望んでいるのはくつろげる家庭。望んでいるからこそ、今は逆の状態であることは容易に想像がつく。
「いや、恥ずかしながら言われたとおりです。今、家庭では落ち着くことができない。妻には腹が立ってしょうがないんです」
「差し支えなければ、どんな状況なのかを教えていただけませんか?力になれることがあるかもしれません」
女性店員、どうして俺にこんなに肩入れしてくれるんだろう。それに、この人にならなんだか安心して話ができる気がする。
「はい、うちは子どもがいなくて二人暮らしなのですが、妻はまともに家事をしてくれないんです。晩御飯はいつも買ってきたお惣菜だし。自分は昼間は友達とランチに出かけたりして遊んでばかり。掃除も適当だし、片付けもしないから散らかしっぱなしです」
思い出すだけで腹が立ってくる。
「あはっ、奥様って私にそっくりですね」
「えっ、あなたが?」
「はい、私も夫から、もっときちんと片付けてくれってよく言われます。仕事もこうやって昼間にこのお店にいるから、どうしても惣菜が多くなっちゃって」
「お若いのに、もう結婚されているんですね」
いやぁ、これには驚いた。こんなにきれいで若い女性の旦那さんって、幸せなんだろうなぁ。でも、今の口ぶりだとその旦那さんも俺と同じ思いを抱いているかもしれないな。
「旦那さん、文句は言わないんですか?」
「だったら直接聞いてみますか?よかったらカウンターに移動されませんか?」
「えっ、直接?」
どういう意味だろう。女性店員はそう言うと、まだ飲みかけのコーヒーカップをカウンターに運んでくれた。そしてこのお店のマスターになにやら話をしている。なんだかよくわからないけれど、俺は荷物を持ってカウンターへと移動した。
「いらっしゃいませ。こちらへどうぞ」
カウンターではマスターが私を待っていた。
「マイから聞きました。私の話を聞きたいということで」
「私の話って…えっ、じゃぁこちらの店員さんの旦那さんって…」
「はい、私です」
「えぇっ!」
これにはさすがに驚かされた。
「マスターと店員さんって、結婚されているんですか!」
「はい、年の差婚ですけれど」
確かに、マスターは見た目四十代半ば。私と変わらないくらいだろう。そして店員さんはどう見ても二十代。見た目は親子ほどの差がある。
「いやぁ、驚きました。えっ、ってことはさっき奥さんが言われてましたけど。私の妻そっくりだって。あ、そっくりといっても見た目は間逆なんですけど」
「どんなところが似ているのですか?」
「家を片付けない、食事はお惣菜が多い、掃除も適当、昼間は友達とランチに出かける…」
「そうですね、昼間のランチ以外は当てはまっていますよ。うちのマイの場合は、昼間ではなく夜に友達と時々飲みに行ったりしますけどね」
「マスターはそれで、奥さんに不満を持ったりはしないのですか?」
ここが一番聞きたいところである。一体どんな答えが返ってくるのだろうか?
「まず食事ですけど。これは仕方ないと思っています。昼間はこのお店を一緒にやってくれていますから。だから、無理をしないように伝えています。今は便利なものがあって、夕食の食材を宅配してくれるサービスがあるので、それを活用していますよ。おかげでお惣菜は少なくなりました」
なるほど、確かに宅配で食材を運んでくれるサービスはある。忙しい家庭にはありがたいものだ。
「じゃぁ片付け、こちらはどうなんですか?」
「確かに、マイはちょっとズボラなところがあって。使いっぱなしにしたり、ものを捨てずに取っておいたりという事が多いですね」
これはウチと同じだ。
「マスターはそれに対して不満じゃないんですか?」
「最初は不満に思ったこともあります。けれど考え方を変えました。マイがしないのであれば、私がやればいいことだって。だから、使いっぱなしになっていて気になるものがあれば、私が片付けていますよ。捨てないものも、これは使うのかを確認してから私が捨てています」
「でも、それって大変じゃないですか?」
「いえ、慣れてしまえばなんてことはありません。これが家の中での自分の役割だって思えばいいんですから。マイだって働いている。だから家事の全てをマイに任せてしまうことこそが、危険な考えだって私は思ったのです」
カップを磨きながら、マスターはにこやかな顔でそう答える。確かに奥さんが働いているのであれば、家事はある程度平等に行うべきだろう。けれど、我が家の場合、妻は専業主婦でずっと家にいる。
「マスターのところと我が家では状況が違いますよ。奥さんはここで働いているからこそ、そういったワガママが許されるんです。けれどウチは専業主婦で、特に何をするわけでもなく、好き放題、勝手放題やっているんです。これってどう思います?」
心の中の不満をマスターにぶつけてみた。するとマスターから意外な答えが返ってきた。
「大変失礼かもしれませんが、お客さまは奥さんの前でいろいろと好き勝手にやっていたのではありませんか?」
「自分が好き勝手に?」
そのセリフで、ふと自分を振り返ってみた。確かに営業という仕事柄、突然予定が入って晩御飯をキャンセルしたことは何度もある。家のことをやってほしいと言われても、たまの休みだからと言ってゴロゴロさせてもらったり。それに、好きなものばかり食べているせいか、私の体重もかなり増えている。ここは妻のことを言えないな。
「まぁ、そう言われればそうかもしれませんが…でも、私は外で仕事をしているのですから、そのくらいわがままを言ってもいいんじゃないですか?」
このセリフに予想外に反応したのは、なんとマスターの奥さんである。
「主婦の仕事を年収にすると、いくらになると思いますか?」
突然の質問にとまどってしまった。それ、前に何かで読んだことはあるのだが具体的な数字までは覚えていない。私が答えられなくて迷っていると、マスターが手助けをしてくれた。
「たぶんではありますが、旦那さんの年収よりも高いですよ」
「私よりも高い!?ってことは…800万円くらい?」
私は頭にひらめいた数字を恐る恐る言ってみた。
「残念!もう少し上なんです。答えは一千万円と言われています」
マスターの奥さんがそう言ってにやりと笑った。そしてこの言葉を続けた。
「これは育児も含まれているんですけど、全ての仕事を朝起きてから夜寝るまで、休みなくやっている主婦ってすごいと思いませんか?家政婦を雇ってやってもらったらと考えたら、これだけのお金がかかっちゃうってことなんです」
「だから、お金を稼いでいる自分よりもすごい、そういうことなんですか?」
「いえ、旦那さんよりもすごいというわけではありません。主婦の方々はそれだけの価値のある仕事をこなしながら、家計を守っているといえます。だから、一般的には旦那さんが稼ぎ、奥さんが守る。役割的にはお互い様だと私は思うんです」
けれど、それに対しても俺なりの反論はある。
「それはあくまでも、きちんと主婦業をやった場合の話でしょう。ウチの場合、その仕事をきちんとやってくれていないんですから。それに子どももいないし。一千万円なんて価値どころか、業務不履行で解雇したいくらいですよ」
私がムキになって反論すると、マスターが私に尋ねてきた。
「解雇ってことは、離婚したいってことなんですか?」
「いや、離婚ってほどじゃないんですけど…でも、なんとかして欲しいと思っているのは確かです」
「では一つお聞きしてもよろしいでしょうか?」
「なんでしょうか?」
ちょっと私もヒートアップしている。妻のことを思い出すだけで、なんだか苛立ってきている。
「奥さんにどうなって欲しいとお思いですか?」
「どうなってって、そりゃちゃんと料理を作って、家も片付けて、洗濯物だってきちんとたたんでタンスに入れて…とにかく普通のことをやってほしい、それだけです。それをやってさえくれれば、昼間に友達とランチに行こうが、カルチャーセンターに通おうが何やってくれてもいいんです」
「なるほど。そうなるために、旦那さんが家の中でできることって何かありませんか?」
「私が?どうして私がやらなきゃいけないんですか?」
「どうして旦那さんがやる意味があるのか、それは旦那さんが行動を起こせば、奥さんも行動を起こすからです。逆を言えば、旦那さんが行動しなかったから、奥さんも行動を起こさないんです」
マスターの言葉にはまだ納得いかない。俺は俺の役割があり、妻には妻の役割がある。それぞれがそれぞれのことをきちんとやるべきだろう。そのことを言おうとした時、マスターの奥さんがこんなことを言い出した。
「できることって料理を作ったり、洗濯をしたり、掃除をするってことじゃないんです。食べたあとのものを流し台に持っていったり、落ちているゴミを拾ったり、玄関の靴をそろえたり。その程度でいいんですよ」
言われて思い出した。みゆきからよく、食べたあとの食器は自分で台所に持っていって欲しいと言われていた。けれど俺がそれをやらないから、徐々にお惣菜が増えていった。
落ちているゴミも、俺が見つけたらみゆきに対して
「ゴミが落ちているぞ。ちゃんと片付けておけ」
と言っていた。そのあたりから徐々に、みゆきは片付けをしなくなってきた。
このことをぽつりぽつりと語っている俺。言いながら思った。今のみゆきをつくったのは、本当は俺なのかもしれない。
「旦那さんと奥さん、お互いに『くれない病』にかかっているようですね」
「なんですか、その『くれない病』って?」
マスターはにこやかにその問いに答えてくれた。
「くれない病とは、相手があれをしてくれない、これをしてくれない、といって不満を漏らすことです。本当な自分が動けばいいのに、自分からやればいいのに、相手にそれを求めてしまう。そしてそれをやらないから不満が募る。その結果、もう相手に期待するのをやめよう、だから自分も動くのをやめよう、そうなってしまうのです」
「じゃぁ、俺はどうすればいいんだ。何から手を付ければいいんだ。料理はできない。洗濯なんてやっているほどの時間はない。家の片付けくらいは少しはできるけれど、妻は勝手に触られるのを嫌うし…」
独り言のようにぽつりとつぶやいた。するとマスターがこんな提案をしてくれた。
「その答えをシェリー・ブレンドに尋ねてみてください。シェリー・ブレンドは今欲しがっているものの答えを教えてくれます」
そうだった。このコーヒー、シェリー・ブレンドはその人が欲しがっているものの味がするんだった。藁をもすがる思いで、俺は残っているコーヒーを一気に口に流し込んだ。
ちょっと生ぬるくなったコーヒー。だが、味は最初に飲んだときよりも際立っている。コーヒー独特の苦味と酸味、さらに甘みも深まって舌を刺激する。そのとき、なぜだがスピード感を感じた。最初に飲んだときにはじわりじわりと味がしみてくる感じだったが、今飲んだ時はすぐに味を感じることができた。
「スピード感…すばやさ…」
ぼそりとつぶやいた。その言葉をマスターはちゃんと捉えていた。
「スピード感、すばやさ、そこから何を連想しますか?」
「気づいたら素早く動く。つまり、妻に任せるのではなく自分がまず動け、ということ。そういうことか」
「なるほど、奥さんに任せるのではなく自分から動く、ですね。ではまず何から動いてみますか?」
そう問われて、頭のなかにすぐに三つのことをひらめいた。
「まずは落ちているゴミを拾う。次は机の上に散らかっているものを元に戻す。そして玄関の靴並べ…」
こんなにスラスラと言葉にできるなんて、驚きである。これもシェリー・ブレンドの魔法がまだ効いているおかげかもしれない。
「マスター、奥さん、わかりました。まずは小さなことからでいいので、自分から行動を起こせばいい。そうすれば妻も変わりますか?」
「もちろんです。奥さんにやらせようとするのではなく、まずは自分から行動を起こしてみてください」
なんだかちょっとワクワクしてきた。ひょっとしたら何かが変わるかもしれない。そんな期待が湧いてきた。
「マスター、奥さん、ありがとうございます。おっといけない、もうこんな時間だ」
気がついたら約束の時間の間際である。あわてて精算をして店を飛び出す。にしても、このカフェ・シェリーは不思議な喫茶店だな。あのコーヒーもそうだが、マスターと奥さんがとてもいい。人生について大切なことを教えてくれる、そんな喫茶店だな。
その日の中丸商事との商談、ここでもさっき気づいたことを早速やってみることにした。いつもだったら
「もうちょっと値引きしてくれませんか?」
と相手から言い出すところを、こちらからこんな提案をしてみた。
「いつもお世話になっている中丸商事さんですから。ここまでならなんとかお値引きできます。ただし、注文数をこれだけいただきたいのですが」
相手から言わせるのではなく、こちらから言ってみた。すると、この提案があっさりと通る。商談成立だ。これには驚いた。
「なるほど、こちらの態度を変えれば相手も変わるのか」
俺は早速、会社に戻って他のことでも確かめることにした。まずは総務の女の子に対してだ。
「木村さん、いつもお疲れ様。そして見積書をいつもすぐに作ってくれてありがとう。さっき中丸商事との商談をまとめてきたから、早速で悪いけど見積書をつくってくれるかな?」
すると木村さん、にこやかに笑って「ハイ」と返事をしてくれた。これには驚いた。
というのも木村さんはどちらかというと無愛想な方。特に俺が見積書や納品書の作成を頼むと、いつもブスッとして「はぁい」と間延びをした返事をしていた。けれど今日は何かが違う。いや、違うのは俺の方か。俺がまず木村さんに対して「ありがとう」なんて言うものだから、木村さんも機嫌が良くなったのだろう。
よし、この調子で家に帰ったら自分ができることを始めて、さらに妻に対して「ありがとう」の一言でも言ってみることにするか。そうすれば何かが変わるかもしれない。俺は期待に胸を弾ませて、いよいよ家に帰る時間を迎えた。
今夜は珍しく家で食事だ。最近は付き合いもあったが、どちらかといえば家で食事をしたくなくて、それであえて外食をしていたからなぁ。さて、今夜はどうなるのか。
「ただいま」
いつもは「疲れた」というような声で玄関を開けるが、今日はちょっと元気よく言ってみた。
「あら、お帰りなさい。意外に早かったわね」
いつものように、ソファに寝転がってテレビを見ながら俺の帰りを待っていた妻。ここでムッとしてはいけない。笑顔でこう答える。
「あぁ、たまには家でゆっくりしたくてね」
そう言いつつ、スーツを脱ぎながら家の中を見回す。あいかわらず雑然としているなぁ。けれどこれに対して腹を立ててはいけない。まずは自分から行動を起こしてみるんだったな。
俺は早速、ダイニングテーブルの上に広げっぱなしになっている新聞と広告を片付ける。ついでに出しっぱなしにしているペンや小物を然るべき場所へと戻す。たったそれだけのことなのに、わずか数分しかかかっていないのに、なんだかダイニングの上が見違えるように綺麗に見える。
妻はようやく体を起こして、晩御飯の準備にとりかかった。といっても、冷蔵庫に入れてあるお惣菜を取り出し、パックのままテーブルに並べるだけ。フライものをレンジで温め、ふたたび同じ容器に戻す。こうすることで洗う皿の数を減らそうというわけだ。ちょっと味気ないが。
そこで俺はちょっとしたひらめきで、あえて二枚のお皿を取り出して、カット野菜の千切りキャベツをそれぞれに盛り付けた。そしてレンジで温まったフライを並べ、さらにゴボウのきんぴらを小鉢に入れてみた。
「あら、あなたなにやってんのよ。お皿洗うのが面倒じゃないの」
いつもの俺なら、ここでちょっとキレてしまっていた。せっかくこっちがやってあげたのに、そう思うところだった。が、今日は違う。ここで俺がキレるから、妻も嫌気がさしてしまうのだ。だからにこやかにこう答えた。
「いいよ、このくらいの皿なら俺が洗うし。それにそもそも、お皿は食器洗い機が洗ってくれるだろう?」
「まぁ、そうだけど」
「ほら、この方が見栄えもいいし、なんとなく雰囲気がいいじゃない。さぁ、食べようか」
「う、うん。でもどうしたの?急にこんなこと始めちゃって」
「いいからいいから。さ、食べよう。いただきまーす」
こうして一緒に晩御飯を食べ始める。なんだかいつもより美味しく感じる。
「あのさ、いつもこうやってご飯用意してくれてありがとうな」
「ど、どうしたの、今日のあなたなんか変。いつもはムスッとして何も言わずに御飯食べるのに。熱でもあるの?」
「いや、なんとなくみゆきにお礼を言いたくなってね」
「やっぱりあなた、ちょっと変よ」
そう言いながらも顔つきがいつもと違う。なんとなくにやけているのがわかる。そんな妻を見ていると、俺もちょっと微笑ましく感じた。
大きな変化があったのは翌日の朝。いつものように朝食はパンとインスタントコーヒーが用意してある。そしてだいたいはゆで卵だけという質素なものだった。が、今朝は違う。
「あなた、おはよう。目玉焼きつくったから、冷めないうちに食べてね」
おどろいた。朝から調理した温かいものが出てくるなんていつ以来だろう。
「あ、ありがとう」
たかが目玉焼き、大したことではないだろうが俺にとっては大きな驚きだ。まさか、こんな事が起きるなんて。カフェ・シェリーのマスターが言っていたことは本当だったな。だったらもっと俺が動けば、妻のみゆきもさらに変化するかもしれない。そんな大きな期待感が湧いてきた。
早速いろんなことに挑戦してみた。玄関の靴並べ、風呂の掃除、出しっぱなしにしているものの片付け、落ちているゴミを拾う、などなど。ほんのちょっとでできる小さなことばかり。けれど、やっていくと気持ちがいいことに気づいた。
「なんだ、たったそれだけのことだったのか」
自分でも驚いている。俺は今までどうして放ったらかしにしていたのだろう。家のことは妻のみゆきに任せていた。それが妻の役割だと思っていたから。けれどこれは大きな間違い。俺も家のことで、できることはやるべきだな。その方が気持ちがいい。
そんなことをやりはじめて一週間ほど経った。この間、みゆきにも変化が現れた。
「あなた、今晩何食べたい?」
朝出かけるときに、みゆきがそう聞いてくるようになった。めずらしいな、と思ってリクエストをすると、晩御飯にそれが出てくる。しかもお惣菜ではなく手作りで。
先日も餃子をリクエストしたら、なんと皮から本格的に手作りをしたものが出てきた。これには驚いた。当然ながら美味い。
「よかった、久しぶりに腕をふるったから、ちょっと不安だったけど」
「いや、こいつは絶品だ。また今度作ってくれよな。」
そう言うと、みゆきはちょっと照れ笑い。そんな表情の妻をみるのはいつ以来だろう。なんだか家に帰るのが楽しくなってきたぞ。
この妻の変化をカフェ・シェリーのマスターや奥さんにも伝えなきゃ。今度、営業の合間に時間をつくって寄ってみるかな。
いつカフェ・シェリーに行こうか考えていた時に、みゆきからこんな提案が出てきた。
「ねぇ、今度の日曜日は時間ある?」
「ん?まぁ特に用事はないけど」
「じゃぁさ、たまには一緒に街に出かけない?」
みゆきと出かける。それっていつ以来だろう。たまにスーパーに買い物に行くのに、荷物持ちとして一緒に出かけることはあるけれど。それ以外でみゆきと外に出るなんて最近では記憶にない。
「まぁいいけど。何か買いたいものでもあるのか?」
「とくにそういうんじゃないけど。なんとなくね」
これも妻の変化かな。とここでひらめいた。よし、特に目的があるわけじゃないのであれば、みゆきをカフェ・シェリーに連れて行ってみるか。
「よし、わかった。日曜日だな。おまえと出かけるなんて久しぶりだね」
そう言うと、みゆきはちょっとだけ照れた感じで私に微笑んでくれた。こうやって見ると、みゆきも意外にかわいいじゃないか。まぁ見た目は年相応ではあるけれど、元の作りは悪くはないんだから。ただ、もうちょっとダイエットしてくれるとさらにかわいく感じられるんだけどなぁあ。これは俺のわがままというところかな。
そうして日曜日となった。
「ねぇ、これよくない?」
みゆきは街中のブティックやアクセサリーを売っているお店でウィンドウショッピングを楽しんでいる。何か買おうというわけではなさそうだ。そう言われるたびに
「うん、いいんじゃない」
「それよりもこっちのほうが似合うよ」
と会話を合わせる。以前の俺だったらきっとこう言っていただろう。
「そんなのどっちでもいいから、早くしろよ!」
俺も変わったものだ。なんだか心にゆとりができた気がする。そのせいだろうか、それとももともとそうだったのだろうか。妻のみゆきがまんざらでもないなという気になってきた。
みゆきはしばらく自分のものばかり見ていたが、突然こんなことを言い出した。
「ねぇ、あなたの紳士服も見てみない?」
「えっ、あ、あぁ」
何の誘いなのか、突然だったのでそんな返事しかできなかった。ほぼ無理矢理に近い形で、近くの、とても俺一人だったら入りそうにない高そうな店に連れられていった。まぁ何か買うわけではないのでいいかな、その時はそう思った。
店の中は、俺がよく行く全国チェーンの吊るしの紳士服とは違う雰囲気が漂っている。こんな場にいていいのか、という気さえする。ちょっと逃げ出したくなるな。
「ねぇ、こんなネクタイどう?」
みゆきが率先して俺のネクタイを選びだした。みゆきが選んだネクタイ、まんざらでもない。いや、結構いい感じだ。こんなネクタイをして営業に行ったら、ちょっと賢くなった気分になれそう。
「うん、いいじゃないか。みゆきもいいセンスしてるな」
「でしょ」
自慢げなみゆき。そういう顔も悪くはない。にしても、このネクタイ、高いなぁ。さすがは高級店だ。だがここで思いもしなかったことが起こった。
「じゃぁ、これにしよっと」
そう言ってみゆきはネクタイを手にして店員に近寄っていく。えっ、どういうことだ?
しばらくすると、みゆきは財布を取り出しお金を払っている。つまり、あのネクタイを買ったということか?
「お、おい、どうして…」
「うふふ、だってあなた、あさってお誕生日じゃない。平日だといつお祝いできるかわからないから。だからこれ、誕生日プレゼント」
誕生日、すっかり忘れていた。自分の誕生日を忘れるくらい、忙しさに埋没していたのか。それにしても、誕生日を祝ってくれるなんて何年ぶりだ?妻のこの変わり様は一体なんなんだ?
さっきはみゆきが俺を喜ばせてくれた。今度は俺がみゆきを喜ばせる番だ。
「あのさ、ちょっと連れていきたいところがあるんだけど」
「ん、どこ?」
「うん、ちょっとおもしろいところ。あとは着いてのお楽しみだよ」
俺はそう言うと、みゆきの手を取って歩き出した。もちろん向かう先は俺を変えてくれたあの店、カフェ・シェリーだ。
「あなたとこうやって手をつなぐなんて、いつ以来?」
そう言われて気づいた。俺、まったく自然に、そしてなんのためらいもなくみゆきと手をつないでいた。以前だったら決してこんなことはしない。そもそも並んで歩くなんてこともできない。俺が先を行って、妻が三歩下がって後ろからついてくる。そういうものだと思っていた。
「どうしてわかっちゃったのかな?」
みゆきが急にそんなことを言い出す。
「ん、なにが?」
「あのね、なんだかあなたと手をつないで歩きたいなって、そう思ったの。そう思ったときにあなたが私のてをとってくれたから、ちょっと驚いちゃった」
まさか、そんなことを思っていたとは。不思議なものだ。夫婦って、考え方が似るものなんだな。いやなことも、そしていいことも。なるほど、マスターが言っていたことがわかってきた。自分が行動を起こせば相手も行動を起こす。良くも、悪くも。
「ついたぞ。ここだ」
カフェ・シェリーのある通りに到着。先日は平日に来たのでそれほど思わなかったが、休日になるとこの通りは人で賑やかさが増す。この街にもこんなところ、あったんだな。
「私、この通り大好きなの。へぇ、よく知ってたわね」
みゆきは右に、左にキョロキョロしながら歩いて行く。そして通りの中ほどまで来たときに、なんとみゆきの足が止まった。
「ねぇ、ここに入っていい?」
みゆきが指差したのは、カフェ・シェリーの看板。これは驚きだ。
「入っていいも何も、俺が連れてきたかったのはこのお店なんだよ」
「うそーっ、あなた、カフェ・シェリー知ってたの?」
「なんだ、みゆきもこの店知ってたのか?」
「うん、いつかあなたをこのお店に連れていきたいと思っていたの。まさか、あなたの方からここに誘ってくれるなんて」
お互いに驚きである。ふと看板に書かれている、マイさんの今日の一言に目を移すとこんなことが書かれてあった。
「お互いに思い合えば、それは必ずお互いに通じあいます それが相思相愛」
まさに、今の俺たちにピッタリの言葉だ。これを見て、俺もみゆきも思わず見つめ合い、そして微笑んでしまった。これも相思相愛かな。
二人で並んで階段を上がる。そして、二人でカフェ・シェリーの扉を開く。
カラン・コロン・カラン
心地よいカウベルの音とともに聞こえてくる「いらっしゃいませ」の声。
「こんにちは」
「あ、先日の。えっ、こちらが奥様!?」
マスターが驚いた顔をしている。どういうことだ?
「マスター、先日はありがとうございました」
みゆきがマスターにお礼を言っている。ということは、みゆきもどうやらこのお店で何か大きな気づきを得たということか。
「いやぁ、お二人はまさに似たもの夫婦ですね。びっくりですよ」
「どういう意味ですか?」
「あなたもこのお店で、私達のことを相談したでしょ」
みゆきの言葉になるほどと思った。つまり夫婦で同じようなことをここで話したということか。だからみゆきも俺と同じように、自分から行動を起こし始めたということだったんだ。
今日は窓際の席に案内される。緩やかに陽があたり、なんともいえない心地よさを感じる。
「ご注文は?」
マイさんにそう聞かれて、もちろんこう答える。
「シェリー・ブレンドで」
このとき、みゆきと声がぴったり合っていた。そして見つめ合い思わず笑い出す。これが夫婦なんだな、とあらためて思えた。
<似たもの夫婦 完>