刑吏の子
遺体や解剖についての詳細な描写があります。苦手な方はご注意ください。
解剖は翌日の昼から行われた。動物の解剖は以前塔にいた時に何度か見て慣れていたが、人間の解剖を見るのはまだ2回目。私は今も遺体に刃を入れることに対する忌避感がないわけではない。
調理場の台の上に横たわるのは小柄な男性だ。ウリさんに届けられたということは、自殺者の遺体である。がりがりに痩せて、眼が落ちくぼんでおり、顔を含めてそこら中に殴られたような痣がある。おそらく生活が苦しかったのだろう。貧困に追い詰められて死を選んでしまったのだろうと思われた。
カールさんはおそらく、ティッセン宮中伯の隠密だった。ヨハン様配下の隠密の方々とお話していてもわかるが、隠密は自らが社会からはみ出した存在であることを自覚しているし、他人の命を奪う代わりに、自分の命も奪われる可能性を常に覚悟している。だからこそ、その亡骸に刃を入れることに対しても、暗黙の了解を得ているようなつもりで解剖に参加できた。
しかし、今目の前にいる人はそうではない。民間人だ。もちろん、自殺が罪であることや、その罪を犯せば、教会の敷地内に眠ることができないことなど誰でも知っているので、そういう意味では『覚悟』もしていたかもしれないが……首元についた鮮やかな縄の跡と、対照的にどこか安堵したような表情を前にすると、彼の身体を傷つけることを厭う気持ちが生まれてしまった。
「ヘカテー、嫌だったら参加しなくても良いぞ。部屋で読書でもしていろ」
そんな私の様子を察してか、ヨハン様が声を掛けてくださる。
以前にも似たようなことを言われた。あれはカールさんの解剖でできた傷を縫い合わせようとした時のことだ。あの時もヨハン様は、無理をするなと言ってやめさせようとした。それを押し切って最後までやり遂げたのは私の選択だった。
「俺の研究を手伝うなら紙の上の知識だけで十分だ。俺はもう弁解の余地がないほどに手を汚してきた。今更、罪がどうこうと考えることもないが、お前は違う」
ヨハン様は少し自嘲気味にそうおっしゃった。
本当に何も感じていないなら、わざわざ手を汚すだの罪だのと言及するはずもない。この方は、悪魔と蔑まれ、葛藤を抱えながらも、歩みを止めることを自らに許していないだけだ。
私は自分の両頬を手ではたいて気合を入れ、答えた。
「この人の身体もまた、未来の医療の礎となるものです。自殺という罪を犯してしまっていても、間接的に多くの人の命を救うことになれば、天国の道が開けるかもしれません。解剖はこの人にとっての救済措置です。刃を入れる勇気を私はまだ持てませんが、お傍でお手伝いをさせてください」
私の返答にヨハン様は目を瞠り、そして伏せる。しかし、その口元には微かな笑みが浮かんでいた。
「……そうか。では始めよう。ヤープ、まずは鎖骨下あたりから大きくY字状に切れ。へそまで行ったら、上下反転したY字で腹の下までだ」
「かしこまりました」
ヨハン様が切り方を指で指し示し、ヤープによって刃が入れられる。やはり日ごろから皮剥ぎの仕事をしているだけあって、見事な刃物遣いだ。小さな手に握られたナイフは、何度も小刻みに動かされ、泳ぐように滑らかにYの字を描いていく。突っかかったりすることもなく、血もあまり出ない。
「切った線に沿って皮膚と脂肪を剥がしたら、次は肋骨を開く。鉗子を使え」
「はい」
ミシミシ、カンカンと嫌な音を立てながら、肋骨が折り切られていく。全てを切り終えて下半身側に持ち上げると、肋骨が屋台骨のようになって板状の筋肉を押し上げ、身体の内側を明らかにした。
「以前拝見した時よりも、随分と手際が良いですね」
「ああ、あれから何度か人体の解剖を行って、一番効率の良い切り開き方を研究した。肋骨を使って肉を押し上げ、蓋を開けるように開くのはオイレの案だ。あいつは歯抜きの際、口腔が外側に展開するようにできていたら良いのにと、いつも思っていたらしい。今は口を開きっぱなしにする器具を作ることを考えているそうだぞ」
「たしかに、口の中を覗き込んでの作業は大変ですものね」
「さて、中身が見えるようになった。ここから先は俺がやろう」
「はい!」
今度はヨハン様が場所を代わり、各臓器の観察に入る。
「やはり、ヨハン様は心臓が一番気になるのですか?」
「ああ。ガレノスが言うには、血液を作り出し、体中へ運ぶ器官だ。血液には2種類あり、肝臓で作られた栄養に富む静脈血と、心臓で作られる動脈血に分かれるのだが、動脈血にはあまり言及がない」
「さして重要な役割ではないということでしょうか……」
「いや、その割に、心臓の鼓動が止まれば命を失うだろう? 何らかの重要な役割をもっていることは間違いないのだが……止まっている状態で眺めていても仕組みが良くわからんのだ。かといって動いている状態を観察する機会など得られんしな」
すると驚いたことに、ヤープがおずおずと手を挙げた。
「あの……よろしいでしょうか」
「何だ?」
「血は確かに2種類ありますが、どちらも心臓から出ていきます。体内を巡る前と後で、血の色が違うだけです」
ヨハン様もガレノスも知らなかった知識を、この無学なはずの少年は平然と口にしたのだった。




