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たとえ囚われていようとも

「……そうして隠密になった私は、中途半端な心持ちのまま、単なる荒事をこなす駒と自分を定義してヨハン様にお仕えしておりました。あの人に会いに行ったのは、追っ手が放たれた話を耳にした時が初めてでしたから、ヨハン様によって引き合わされるまで、ヘカテーにも会ったことはありませんでした」



 ケーターさんは顔を伏せ、ただ淡々と語った。



「15年間、私は幻を追いながら闇の中に生きる愚か者にすぎませんでした。ですので、ようやく恩義に報いることができると分かった時には、久しぶりに心が躍ったものです。血でも肉でも命でも、使えるものは何でも差し出すつもりでした。ヨハン様は最初から私の忠誠心がご自分に向いていないことに気づいていらっしゃるようでしたので、ヨハン様に命を救われたことは計算外でしたが……そこからの顛末は、先ほどお話しした通りです」



 私は思わずケーターさんに走り寄ってその手を取り、無我夢中でお礼を言った。握った手の爪はまだほとんどなく、肉が盛り上がって変形している。どれだけの苦難を肩代わりしてくれていたのだろう。父を探した10年、危険を冒して噂をばらまいた隠密活動、そして自ら死ぬためだけに過ごした絶望的な地階での日々。私はそんなこと何も知らなかった。


 ありがとう以外の言葉が出てこず、泣きながら繰り返す私を、彼はただ優しい目で眺めていた。



「ケーター、それでそのヤタロウは、今どこにいる?」



 見かねたヨハン様が、中断させるように声を掛けてきた。



東方(レヴァント)を目指したはずです。この目で見届けたわけではないので、その後は知りませんが……ヤタロウさんはもともとギリシアの血を引く人ですから」


「そうだったな。つまりヘカテーは帝国とギリシアの混血ということか」


「いえ、ヤタロウさんの母親はギリシア人だそうですが、昔、自分には3つの血が流れていると言っていました。ヘカテーは更に宮中伯夫人によって帝国の血が混じり、4つの血を受け継いでいることになります」


「4つの血か。それは出自もよくわからないはずだな……」



 ケーターさんの反応に、さすがのヨハン様も驚きの表情を浮かべている。それは私も同様だ。一つは帝国、もう一つはギリシア、それから祖父の本の言葉を用いる国の血……私の中には、更にもう一つの血が流れていることになる。その中で最も濃いのは帝国の血とはいえ、周囲は私のことを異邦人と認識する。


 自分を定義するためのよりどころが無くなってしまった……そんな気分だった。私は漸くケーターさんのもとを離れ、呆然と立ち尽くす。


 しかし、ヨハン様は特に意に介さないようだ。



「まぁ、ヘカテーの血がどこだろうがどうでも良い。言葉が通じ、読み書きもできるのだから一般的な帝国貴族と特に変わるところはないだろう。そんなことより今後のヘカテーの扱いだ」



 私の悩み事はあっけなく一蹴され、簡単に次の話題に移ってしまった。そういえばこの方は皮剥ぎ人や刑吏とも普通に言葉を交わされるような方。周囲の人間を測る物差しは、使えるか使えないかのみなのかもしれない。



「立場としては使用人でも隠密でもなく、ティッセン宮中伯夫人からの預かりものということになるが、夫人のもとに返す日が来るわけでもないし、表に出すわけにもいかん。クラウスやヴォルフごと騙しているから、城どころかこの塔からもな」


「承知しております……」



 幼いころに聞いた囚われのお姫様の物語。お姫様は言い過ぎにしても、まさか自分がその立場になるとは思っていなかった。私の生涯は、この細長く薄暗い塔の中で終わる。いつかヨハン様の幽閉が解かれれば、そこからはここにたった一人で過ごすことになるのだ。物語のお姫様と違い、誰かが迎えに来ることもない。



「これで境遇は俺と一緒だ。仲良くここに囚われようではないか。慣れれば悪くないものだぞ」



 そんな私の心の内を知ってか知らずか、ヨハン様は少し意地悪そうな顔で、ははは、と大きく笑う。



「それと、客人といえども、お前には存分に働いてもらうつもりだ。お前がいれば研究も大いに進む」


「研究でございますか。メイドとして働くのではないのですか?」


「それもある程度は頼みたいが、どちらかというと研究が中心だ。さっきの話をケーターが白状したついでに、こいつもギリシア語ができるということが判明したからな。今は二人で翻訳を分担しつつ、オイレと3人で床屋や歯抜き師にばら撒くための冊子を作っている。もちろん、最終目標は医師を啓蒙することだが、連中は頭が固すぎる。まずは現場の改善のほうが先だ」



 ヨハン様の選択はいつも合理的だ。あまりにたくさんの情報が一気に入ってきて、処理しきれずに戸惑う私を置き去りに、ただ淡々と現状の説明と今後の予定を語るだけ。


 それでも、こんな話を聞いてしまえば、私は簡単に喜んでしまうのだ。さっきまで自分の将来を憂いていたというのに、今、目の前に差し出されている状況が、とても楽しそうに思えてしまって。たとえそれがどんなに短い期間になろうと、幸福に思えてくる。



「かしこまりました。ヨハン様のお手伝いをさせていただけるなら、これほど嬉しいことはありません」


「理解が早くて助かる」



 私の返答に短く返すと、ヨハン様は隠密の皆さんに目を向けた。



「さて皆、こういうわけで今後ヘカテーはこの塔でメイド兼学者見習いとして働く。ヘカテーの存在を隠し続けろ。今までで最も長期にわたる指令だが、お前たちであればやり遂げると信じているぞ」


「はっ、仰せのままに!」



 声をそろえて答える皆さんは、なぜかどことなく嬉しそうにしている。非常に優秀で、個性的な方々のことだ。もしかすると、難しい課題ほどやる気が出るのかもしれない。



「もう夜も更けた。皆下がってよい。ヘカテーは少し残れ」



 隠密の方々が全員退室すると、ヨハン様は少し姿勢を崩された。やはり統率者として命令を出すときにはそれなりの緊張があるのだろうか。



「以前お前がいた頃は、用事があるときはベルを鳴らして呼んでいたが、今後はあれを使えない。用事があるときは、お互い部屋に出向く形で良いか? もちろん勝手には入らない」


「私はもちろん大丈夫です。ヨハン様にご足労いただくのは恐れ多いですが、私も他に良い案も浮かびません」


「それと、食事運びと雑用は当番制に戻っているから、メイドがやってくる六時課と終課の間は部屋から出ず、物音を立てるな」


「かしこまりました」



 この日から、第二の人生が始まった。

六時課は正午、終課は午後6時頃です。

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