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背いた犬

ケーター視点、ラストです。

 ある日、ヤタロウさんが宮中伯夫人の叱責の対象となった時、ついに俺はこぼした。



「ヤタロウさん、どうしてあの方々だけに忠誠を誓っているのですか? 夫人の言動はいつも理不尽がすぎますし、宮中伯にそれを補って余りある魅力があるとも思えません。お父様が取り立てられた恩義があるにしても、あなたほどの人なら、他にもっと評価してくれる領主がいるのではないですか?」


「ははは、君からはそう見えるのか」


「今日怒られたのだって、どう考えてもヤタロウさんの責任ではなかったのに……」



 悔しくて愚痴を言う俺を、ヤタロウさんはそっと窘める。



「人は立場によって見える景色が違うものなんだ。誰かの言葉を聞くときは、常にその人が何を考えてその言葉を発したのか、考えなくてはいけないよ。夫人はとても聡明な人だ。よりよい未来のために、常に私たちを試しているのさ」


「私は、人を試す時点で好きになれません……騎士の十戒は婦人に寛容であれと説きますが、宮中伯夫人は我々より立場が上です。弱者ではありません。騎士以外に騎士道を望むべきではないのかもしれませんが、あの方はもっと弱者を尊ぶべきだと思います」


「君の言うことも一理あるが、光は常に影がなくては存在しえない。宮中伯が光であるために、そして何よりこの領地と国の未来に光があるために、夫人はわざわざ影の役を買って出ているのだよ。そのせいであの細い肩にかかる重圧を思えば、それは尊敬に値することだ」



 だが残念なことに、俺にはその言葉の意味を理解する能力がない。納得いかずに黙り込む俺を、ヤタロウさんはただ優しい目で眺めていた。


 結局夫人の言動の真意はわからないままだったが、ヤタロウさんのもとで過ごした日々、そしてその騎士道は、俺の人生を真っ白に塗り替えていた。傭兵時代、いつ死んでもかまわないために戦っていたはずの俺は、いつの間にか、ただその背中を追い続けたいために『生きていたい』と思えるようになっていたのだ。



 ……そんな俺の絶頂期が唐突に終わりを迎えたのは、それからさらに4年ほど経った時だ。



「ヴェルナー、話がある」


「なんでしょう」


「今度、子供が生まれるんだ」


「なんとっ!? おめでとうございます!!」



 馬鹿みたいに明るく祝いの言葉を述べる俺を見て、ヤタロウさんはいつかと同じように、困った顔で笑った。



「ありがとう。それで……私はもう少ししたら、この地を去る。君を連れてはいけない」


「え……」


「君はもう十分な実力を持っている。下級騎士(ミニステリアーレ)にしてもらえるよう、夫人に頼んでおいたよ」


「なんで……そんな、俺……私は、あなたについていきたくてこの地に来たんですよ!? 地位なんていりません、どこかに行くなら私も連れて行ってください!」


「申し訳ない、それはできないんだ……なぜなら、これは私の逃避行なのだよ。子供というのは、私とティッセン宮中伯夫人の間にできた子供だ。生まれ次第、私はその子を連れて逃げる」


「夫人と!? そんな、どうして!」


「その子も私も見つかれば殺されるし、私に協力したとなれば君もただでは済まないだろう。だからどうか、私からの最後の贈り物と思って、ここで騎士として暮らしてくれ。私はもう、自分を騎士とは呼べない。だから、せめて立派な騎士を一人この手で育てたのだという誇りだけでも、私にもたらしてはくれないか?」



 痛切に訴える彼の目を見て、俺は何も言うことはできなくなってしまった。


 ヤタロウさんが旅立つとき、何とか行く先を聞いた。イェーガー方伯領、この帝国の北方を占める、最も大きな領邦のひとつだ。おそらく、教えても探すことはできないと考えて教えてくれたのだろう。


 この期に及んで夫人を庇うヤタロウさんの、愛とも忠誠ともつかないそれを、俺は病だと思った。


 久しぶりに最低の気持ちだった。俺の人生の、たった一つの光が失われたのだ。光をなくした俺は闇に沈むしかない。俺はヤタロウさんの希望を叶えることなく、時期を見てティッセン宮中伯領を後にした。


 誰よりも気高い騎士から、騎士であることを奪った宮中伯夫人が許せなかった。本物の騎士になれても、そんな人のもとで働きたくないし、忠誠を誓うなどとんでもない。その子供の存在も、いくらヤタロウさんの血を継いでいようと、美しい絵画についた傷のように思えて憎らしかった。


 宮中伯に気取られないように、できるだけゆっくりと放浪しながら、イェーガー方伯領を目指す。もともと俺は傭兵だ。宿なし生活には慣れている。西に、東に、傭兵業で食い扶持を稼ぎながら、少しずつ北方へ移動した。


 騎士然とした言動は、傭兵として生きるには邪魔になる。教わった剣術の腕前だけ残して、言葉遣いや礼儀作法はすべて元に戻ってしまった。相手を尊べという言葉と、下品な傭兵仲間を軽蔑してしまう心が葛藤し、俺は誰ともつるまなくなった。


 仕事柄、移動するごとに戦いを挟むので、イェーガー方伯領に辿り着くだけで7年がかかった。そこからさらに3年、領邦内を流れ歩き、ついにレーレハウゼンに辿り着くと、俺はある噂を耳にした。



『外国からやってきた、強く上品な黒髪の商人がいる。娘と二人暮らしで、娘は幼いがびっくりするほどの別嬪だ。』



 思わず会いに行こうとして、こらえる。ヤタロウさんは俺がティッセン宮中伯のもとで騎士として生きることを望んでいた。会いに行けば、喜ぶより悲しませてしまうだろう。彼ら(・・)だと思われる情報を耳にできただけで十分だった。


 そして俺は、イェーガー方伯のもとで傭兵をするうち、隠密に転職することとなった。抜きん出た強さと傭兵とは違う剣での戦いが目立ったのだろう。俺に唯一残っていた騎士としての部分である剣術が、俺を騎士から最も遠い職に追いやったのはどんな皮肉か。


 新しい主は、たった15歳の子供だった。ただ、俺が15だったころと違って、ただのガキではない、一本芯の通った優秀な人間であることは一目でわかった。淡いオリーブ色の瞳には強い力が宿っており、それは初めて戦場で見たヤタロウさんの瞳に宿っていた何かを思い起こさせるものだったからだ。


 だが、それでも俺が忠誠を誓う相手にはならない。大きな視野というものを、この期に及んでまだ俺は持てずにいた。



「さて、ヴェルナーと言ったか。隠密にはそれぞれ、暗号名が与えられる。外で名前を呼んでも不審がられないよう、動物や虫の名前になるが……どうしたものかな」



 半ば独り言のように問いかける仮の主に、俺は即答する。



「それでは、駄犬(ケーター)とお呼びください」



 今の俺は、飼い主を失った……いや、飼い主を思い過ぎて裏切った犬だ。動物の名で呼ばれるなら、この名前以外に何があるだろう。



「ほう、自分で名を選ぶか。ではケーター、以後励め。期待しているぞ」

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