ここで生きていくために
お湯と布を用意する間、驚くべきことに、ヨハン様は私と一緒に掃除を始めようとされた。
「ヨハン様のような方が掃除などされる必要はありません! 私にお任せくださいませ!」
「お前はまだどれが捨てるべきものかもわからないだろう」
当然止めるが、例によって聞く耳は持ってくださらない。こともなげに調理台を拭き、刃物類を片付けながら指示を始められる。
「まず、羊皮紙は左から順に束ねて分けろ。これは重要な資料だからな。紙と臓器は対にして並べているから、紙の横に置いてある臓器は捨てて構わん。最後にまとめておいてあるものはまだ描き終えていないから、捨てずに除けておけ」
「かしこまりました。床の死骸はどういたしますか?」
「それはあとで皮剥ぎ人に届ける。小さいが、縁飾りに仕立てれば兄上が買うだろう。派手好きだからな」
お湯と布の準備ができると、ヨハン様は身なりを整えられ、いつもの姿に戻った。それだけで非常にほっとする。人間のものではないと分かっていたうえでも、体中を血に染めた姿でそばにいられるとどうしても緊張しそわそわとしてしまうのだ。ただでさえ私は初対面で剣を向けられているので、きちんと顔をむけてお話しするのも難しいというのに……
ほっとしたついでに改めてヨハン様を見てみると、思いのほか整ったお顔立ちをされていることに気づいた。茶というより灰色に近い髪の色にオリーブ色の瞳、白い肌。全体的に淡く彩度の低い色合いは儚げで触れ難い印象を醸し出しているが、涼しげな目元に宿る知性の輝きがそれを凌駕する力強さを持っている。もしきちんと宮廷に出ていれば黄色い声を上げるご婦人方も多いのではないだろうか。
……だからこそ、あまり変なことをしてほしくないとも思ったりする。
「待たせたな。おお、ちゃんと片付いたではないか。では最後の仕上げだ」
そういって、おもむろにワインを持ってくると、調理台の上にぶちまけられた。せっかくきれいにしたばかりの調理台が再び赤く染まる。
「な、何をなさるんですか……」
「毒消しだ。あの猿は老齢ではなさそうだったが、矢傷も見当たらなかった。おそらく運ばれる最中、病で死んだのだろう。病人の死体には毒があるからな」
「そうなのですね……」
「そろそろ日が傾いてきたな。俺は残りを写していく。お前は下がってよいぞ。夕食はここに持って来い」
「かしこまりました」
見ると、窓から差し込む光はほんのりと赤みがさしてきていた。完全に翳ってしまう前に食事を持ってこないといけない。
一礼して退室しようとすると、ふいに呼び止められた。
「そうだ、汚してしまった服だが、洗濯はしなくて良いから、窓から見えるように干しておいてくれ」
「それは構いませんが……まだ着られるのですか?新しいものをお持ちいたしますのに」
「いや、さすがにもう着ないが、別の使い道があるんだ。それについては明日話す」
そこまで言うと、ヨハン様は私から興味を失ったように、真剣な眼差しで残りの臓物を写しはじめられたので、私は今度こそ調理場から出ていった。
外に出て一旦深呼吸する。長くいたせいで鼻が慣れてきていたが、やはりあの場所は臭いがきつかった。換気に優れた調理場とはいえ、空気がよくなるには数日かかりそうだ。
それにしても、ヨハン様はなんとも不思議な方だと思う。
まず、第一印象に反して、お話ししてみると非常に博学で頭の良いお方だ。切り裂き魔としての噂は聞いていたから、人や生き物を面白半分に弄ぶ残虐な方なのかと思っていたが、ただ切り刻むのではなく「調べる」とおっしゃっていた。
もちろんヨハン様に対する恐ろしさは未だ消えてはいない。有無を言わさぬ威圧感もそうだし、ヨハン様にとって命がとても軽いものであることに間違いはなさそうだからだ。私は今のところ、なぜか有用だと思われているから生かされているが、害悪だと思われれば躊躇なく殺されるだろう。
しかし逆に言えば、気まぐれで暇つぶしに殺されるようなことは、とりあえずなさそうな気がする。あの方の行動には常に理由がある。その理由が私に理解できるものかどうかは置いておいて、何をするにも無駄なことはしない方なのではないかと思えるようになってきた。
だからこそ私は、ヨハン様が何を目的にして、何を望まれているのか、できるだけわかるようになっていきたいと思う。怯えながら嵐が過ぎるのを待っているだけではだめなのだ。自分の有用性は、自力でヨハン様に示していかなくてはならない。きっとそれが、私が年季が明けるまで、ここで生き抜いていくために最も必要なことだと思った。