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遥か東の薬

 その後、ヨハン様と私のやり取りを見ていたシュピネさんがなぜか笑いだしてしまい、お説教は中断された。



「シュピネ、何がおかしい?」


「いいえ、別におかしいとは思っていませんわ。ヨハン様もヘカテーちゃんもかわいいなと思いまして! でもほっとしたお顔が見られてよかったです。この1週間ほどずっと苦しそうになさって、本当に心配いたしましたよ? なのに素直じゃないんですから」


「お前はまた妙なことを……」


「うふふ。だってあたし、いつだってヨハン様のお母さんのつもりでおりますもの」



 艶っぽく笑いながら、シュピネさんはとんでもないことを言い出した。



「え、お母さんですか……? そんなに年が離れているようには……」



 シュピネさんはおそらく20代半ばぐらいに思える。ヨハン様が19なので、一桁の年で生んだことになってしまう。どう頑張っても計算が合わない。



「ヘカテー、本気にするな」



 ヨハン様は疲れたような顔で私の言葉を遮った。



「シュピネはもともと父上の愛人でな。ことあるごとにこういった戯言を言うんだ……」


「そう、要するにあたしは義理のお母さんみたいなものでしょ? もちろん、ヘカテーちゃんのことも娘みたいに思ってるわよ!」


「やめんか」


「シュピネさん、さすがにそれは無理があります……」



 理屈はわかったが、ヨハン様には本物のお母様がいらっしゃる。普通なら到底許されない、失礼千万な発言だ。にもかかわらずヨハン様があまり本気で咎めようとしないのは、やはり部下には甘いところがおありなのか、何年も言われ続けて諦めたのか。



「……なんだか出鼻をくじかれた。気を取り直して、薬を持って来よう。ヘカテー、来い。2階に行くぞ」



 ヨハン様はげっそりとしたお顔で首を横に振ると、部屋を出ていかれた。私は慌ててついていく。


 階段を下り着いた書庫は、私が前に見た時よりも大幅に物が増え、吊り下げられるようにして沢山の薬草が壁にかかっている。書庫というより薬草部屋といった方がふさわしいような様相だ。


 ヨハン様は奥に進むと、チェストの上に置いてある陶器を手に取り、ふたを開けて中を見せてくださった。覗くと、紫色のどろりとしたものが入っている。少し不気味だ。



「これがお薬なのでしょうか?」


「ああ、ニワトコの枝とシコンという植物の根をすりつぶし、ギリシアのヒマシ油という油で仕上げたものだ。これを直接肌に塗布して使う。ニワトコはすぐにわかったが、シコンのほうが難しくてな」


「シコンとは、私も初めて聞きました」


「そうだろう? 俺は最初、隣国でチコリをシコンと呼ぶというので、それかと思ったんだが、描いてある絵とは似ても似つかないし、更には根が薄い紫色で、傷つけると濃い紫の汁を出すと描いてある。それで、これはきっとこの国にはない植物だと諦めようとしたとき、ヤープが見つけてきた」


「ヤープですか!」



 思わぬ名前が出てきた。私の知っているヤープは、解剖後の死体を受け取るだけの係だったはずだ。いつの間にヨハン様と話をするようになったのだろう。



「そうか、お前が塔を出た後だったな。あれは今、ラッテの下について雑用をやっているが、なかなか使えるぞ」



 詳しくお話を伺うと、ヤープは隠密の見習いとでもいうべき立場にいるようだ。ラッテさんと何かのご報告に行った折、ヨハン様がケーターさんと「根が紫色の植物」について話しているのを聞いて、声を掛けてきたそうだ。絵を見せてみると間違いないといい、翌日には両手いっぱいのシコンを持ってきたという。ヤープの住む区域の近所に生えていたらしい。



「傷薬になるとなれば可能性は無限にある。取りつくさないように注意して薬を作り、今はなんとか栽培できないか実験しているところだ」


「そこまで進んでいただなんて驚きました。ヨハン様はさすがですね」



 私の返答を聞いて、ヨハン様は少しうれしそうに微笑むと、一旦器を戻して、側に会った樽を開けられた。



「そちらは何でしょうか?」


「以前お前とも作った、ワインを蒸留器(アランビック)にかけた東方(レヴァント)の酒だ」



 慣れた様子でお酒を布に含ませ、こちらに手を差し出してこられた。



「まずは毒消しだな。貸せ」


「えっと、何をでしょうか……」


「お前の傷のためにここに来たんだ。左右どっちでもいい、手を貸してみろ」


「は、はいっ!」



 左手を差し出してから気づいた。そういえばこのお酒は、一口で喉が焼けるほどの……



「ひぁあああああああ!!!!」



 布を当てられたか所に激痛が走り、思わず悲鳴を上げる。



「大声を出すな。外に聞こえたらどうする」


「し、失礼、いたひまひたぁ……」



 涙声で答える私をよそに、ヨハン様は袖を捲り上げた左手の全体をお酒を含ませた布で拭いた。痛みのせいで目の前がチカチカとして、関係ないのに頭まで痛くなってくる。



「さて、これでようやく薬が塗れる」



 今度は紫色の薬を取り出されるのを見て、思わず身構える。ヨハン様はへらのようなもので薬を取ると、丁寧に塗ってくださった。不気味な見た目故に、もっと激しい痛みが襲ってくるのではないかと覚悟したが、さほど痛みはない。



「よし、できたな。最後に、これを後で煮出して飲んでおけ。乾燥させたニワトコの枝と葉を砕いてリコリスと混ぜたものだが、痛みに効くらしい」


「承知いたしました。わざわざ手当てまでしてくださって、本当にありがとうございます」


「気にするな。処置の方法はわかったな? 左腕以外は自分でやれ。今日からこれを毎日(・・)だ」



 私はケーターさんが言っていた「癒される過程は地獄」のという言葉を思い出した。貴重なお薬をいただいておいて文句は言えないが、毎日全身にあのお酒を塗ることを考えると気が遠くなる。

シコンは漢字で書くと紫根という生薬です。本来ムラサキ(Lithospermi Radix)を指し、ヨーロッパにあるセイヨウムラサキ(Lithospermum officinale)は別の品種なのですが、セイヨウムラサキにも薬効はあるそうなので採用しました。ヤープの住まいの近く、つまり賤民の居住区にあったのは、日当たりの悪い痩せた土地(石灰岩質の土壌)に生えるためです。


ニワトコはいわゆるエルダーフラワーで、枝は接骨木、葉は接骨木葉という生薬になります。また、リコリスは甘草、ヒマシ油の原料も蓖麻子という生薬です。


これらは中世ヨーロッパで手に入るもののうち、ヘカテーの皮膚の状態に薬効があると思われるものをピックアップしていますが、実際に薬を作るには専門知識が必要ですので、マネしないでください(作者もプロではないので作っていません)

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