主のもとへ
ゼイゼイと息をしながら梯子を登りきると、最後は城壁の上で待ち構えていた人が引き上げてくれた。そのまま壁面通路の床にごろんと倒れこむ。
「ありがとうございます!」
「おう、お疲れさん」
朗らかに微笑むその人は筋骨たくましい男性だった。暗めの茶髪にこげ茶色の瞳、野性味のある顔立ち。どこかで見たことがあるような……
「……ケーターさん!?」
「あん? どうした、いきなり」
このしゃがれた声と荒っぽい口調、間違いない、ケーターさんだ。しかし、私の記憶とはずいぶん印象が違う。
「復帰されたんですね! 肌の傷もすっかり癒えたみたいでよかったです。それに、なんだか雰囲気が丸くなりましたね」
そう、以前あった時のケーターさんは全身傷だらけで、肌も荒れ放題だったが、目の前のケーターさんの肌は、女性かと思うほどつるつるになっている。浅黒かった肌色も幾分か明るくなり、髪の毛もだいぶ伸びたようだ。何より、以前は全身に纏っていた攻撃的な雰囲気がなくなっている。すぐに思い出せないのも無理はなかった。
「丸くなったって、なんだそりゃ、生意気言ってんじゃねぇぞ! でもまぁ、ありがとよ。傷を癒される過程は地獄だったがな」
「地獄って、一体何をされたんですか……」
「なぁになぁに、あたしにも聞かせて!」
後から登り終えたシュピネさんも参加してきた。シュピネさんもケーターさんとはしばらく会っていなかったのだろうか。
「ああもうお前ら、うるせぇな! とっとと塔に行くぞ」
機嫌を損ねてしまったようで、ケーターさんはぷいっと顔を背けると内側のはしごを降りて行ってしまった。仕方がないので謝りながら後をついていくと、シュピネさんの笑い声が私を追いかける。警戒の解かれたその声は、もう安全だという合図のようだ。肩の力を抜いて、夜空に聳える石造りの塔を見上げる。帰ってきたのだ、と感じた。1年に満たない塔での生活が、それほどまでに懐かしかった。
塔に着き、2階に上がると、急ぎ足で階段を上ろうとする私をシュピネさんがそっと制した。何かと思うと、オイレさんにもらった仮面が取り出される。
「あ……そうでした、ありがとうございます」
「ふふふ、ヨハン様どんな顔するかしらね」
そのまま私に仮面を被せ、髪を手櫛で整えるシュピネさんは心なしか楽しそうだ。
なんだかんだ言って廊下で待ってくれていたケーターさんに連れられて、ヨハン様の私室へ向かう階段を上る。石造りの無骨な階段は、こんなにも長かっただろうか。お二人とも無言で、高鳴る自分の心音が耳にうるさい。
「失礼いたします。ケーターです。シュピネとヘカテーを連れてまいりました」
「おお、戻ったか。入れ」
許可を得て入室すると、ヨハン様は部屋の中央に立って出迎えてくださった。貴族にしては荒っぽく、しかし堂々としたたたずまいは相変わらずで、そのお姿を再び目にできたことが唯々嬉しい。
「シュピネ、苦労を掛けたな……で、なんだそれは?」
ヨハン様は私の仮面を見てあからさまに困惑の表情を浮かべる。端正なお顔にそぐわないその表情はどこかおかしく、不謹慎にも笑ってしまいそうになった。
姿勢を正して私が答えようとしたとき、シュピネさんが代わりに口を開いた。
「ヘカテーは南の塔の地階で一晩過ごしましたので、傷が酷く……ヨハン様にお見せするわけにはいかないと、隠しております。治るまではどうぞこのままでご容赦ください。本人であることは、私が命に懸けて保証いたします」
「そうだったか」
ヨハン様は一言そう答えると、突然私の手を取り、袖口を捲り上げた。血が滲み、痣だらけの手首がむき出しとなり、私はたじろぐ。
「よ、ヨハン様、そんなことをしてはお指が汚れてしまいます……!」
「気にするな。そして、その声はやはりお前だな、ヘカテー」
ヨハン様は少し悲しそうに微笑むと、しばらく手をつかんだまま手首を回したり、肌を撫でたりしていらした。手つきはあくまで穏やかで、どうやら傷の状態を観察されているようだ。
ただ、真剣なお顔があまりに近い。ただでさえ久しぶりにお会いして緊張しているというのに、このままでは私の心音がヨハン様にも聞こえてしまいそうだ。
「症状はケーターの時と大体同じようだ。安心しろ、すでに薬はできている。ひと月もすれば傷も癒えよう」
「薬でございますか? そんな貴重なものを私に使ってはもったいないです」
「いや、お前は誰よりもその薬を使う権利がある。何しろ、お前の祖父の本を参考に作ったものだからな」
「あれが解読できたのですか!?」
祖父の本。それは、父がお守り代わりに持っていた異国の薬学本。未知の言語で書かれ、祖父によりギリシア語で書き込みが残されていたものだ。
「ああ、傷と皮膚病に関する部分だけだがな。そこの実験台が大いに役に立ったぞ。それに、お前の父のこともだいぶ分かった。そのことは後でケーターから話させよう……だがな、ヘカテー、まずは説教だ」
ヨハン様は掴んでいた私の手首を放り出すように離すと、髪を引っ張って詰め寄られた。儚げだった微笑は、いつの間にか眉が吊り上がり、怖いお顔に変わっている。
「あの手紙は何のつもりだ? 勝手に俺の心配をする前にきちんと考えてから動け。まったく、余計な手を焼かせおって。本当にお前は危機感が足りなさすぎるぞ」
「も、申し訳ございません……」
「その謝り癖もまだ直っていなかったのか。いいか、今後一切、俺に向かって心にもないことを言うなよ。言葉に信頼のおけぬ部下など、俺はいらんからな」
「そ、そんな、心にもないことを言ったわけではありません!」
「じゃあなんだ。大体お前は前から……」
待ち遠しかった塔での生活は、前途多難のようだった。しかし、目の前の主は手ずから私の傷を見て、私のために怒ってくださる方。やはりここは、居心地が良い。
やっとヨハンの元に戻って来られました! よかったねヘカテー!




