知る者だけが
それから、私はシュピネさんと女性二人で、なんの気兼ねもない時間をゆっくりと過ごしていた。オイレさんはお店が開く時間になると毎日やってくるが、特に連絡事項がなければそのまま窓からするりと出て行ってしまう。
これといった仕事もなく、せいぜいお食事の用意を手伝うくらい。ベッドを共有するのはなれなかったが、まだ暗闇に対する恐怖心が残っている私には、日が沈んだ後も頼りになる人が隣にいることがかえってありがたかった。
10日目の朝、シュピネさんはついに出発を告げた。
「ヘカテーちゃん、そろそろ大丈夫そうよ。今日の夕方、一緒に塔に向かいましょ。隠密だけが知っている道があるの」
「ありがとうございます」
ここへ来るときに荷物は持ってきていないため、いつでも出発できる。もともと来ていた服はボロボロになってしまっていたため、今日着ているシュピネさんのおさがりをそのまま着ていくことになった。
娼婦が着る少しばかり華美な服で、オイレさんにもらった仮面をつけてみる。袖口や襟元から覗く肌の傷と痣は、一向に癒える様子はなかったが、髪の毛は綺麗なままなので、そういう仮装をしているように見えなくもない。
「仮面は外で見つかると怪しまれるから、塔に入ってからね。もし途中で誰かに声を掛けられた時は、ヘカテーちゃんは皮膚病を患った妹で、あたしはその姉ってことにしましょ。とはいえ、暗がりなら肌の色なんてわからないけれど」
「わかりました」
日が沈むまではいつも通り過ごし、一旦居酒屋に向かう。娼婦が夜出歩いてもおかしく思われないためだそうだ。また、あえて馴染みではない店に行くことで、私の存在を怪しまれにくくする。こういった計画性に関して、シュピネさんはさすが本物の隠密だった。
「おう、別嬪さんよ! 今夜は空いてないのかい?」
居酒屋に入るなり、突然ガラの悪そうな男が声を掛けてきた。腕が私の腰ほどもありそうな、がっしりとしたその男は、完全に酔っぱらっていて、ニヤニヤと下品な笑みを浮かべている。思わずびくっとすると、シュピネさんは私の手をテーブルの下でそっと握り、こともなげに言葉を返した。
「うふふ、ざぁんねん! 今日はあたしも呑みに来ただけなの」
「酒ならおごるぜ? あんた、最近話題になってるらしいじゃねぇか」
「あたしは高いのよ? 居酒屋のお酒じゃ飲みきれないわ。でもあなたいい男ね! お店に来てくれたらちょっと割引してあげる」
「へへ、そりゃ悪い気しねぇな。明日にでも行ってみるか」
「はぁい! じゃ、明日は一晩2ペーニヒ半。毎度ありぃ!」
「ちょっ、俺が知ってる相場の倍以上じゃねぇか!」
「何言ってるの、本当は3ペーニヒのところを負けてあげたのよ? また会えるのを楽しみにしてるわ」
シュピネさんが艶っぽい声でそう言い、手をひらひらと振ると、男は参ったと言いながら、しかし満足そうに去っていった。
私が呆然とその背中を見送っているとシュピネさんは小声で囁いてきた。
「わかる? あたしたちは戦わないことが何よりの必勝法よ」
「はい……」
確かに、負けないためには戦わないことが一番だ。シュピネさんのように隠密として訓練を積んだ人でもそうなのだから、ただの商人の娘である私が、本職の人たちに立ち向かって勝てるわけがない。柳のように言葉で流して戦闘を避けることが最も合理的である。
それは身体を張っての戦いだけでなく、言葉でも同じだろう。うまくあしらうことが苦手な私には頭の痛い話であったが、敵対する人物と話すときは、舌戦そのものを避ける方向に話を持っていけるよう注意しなくてはいけないと思った。もしそれができていれば、クラウス様とのやりとりもこんな結果を生まずに済んだのかもしれないのだから。
その後も声を掛けられては嫋やかに受け流すシュピネさんを見ながら、そうした面を少しでもこの人から学びたいと思った。
「さ、そろそろ頃合いね」
彼女に連れられて店を出ると、完全に日は沈み、月明りを頼りに歩くこととなった。
裏通りを回って歩いていくと、川辺に出る。お城には遠回りなのではないかと困惑した。
「急がば回れって言うでしょ。ここを突っ切ると、誰にも見られずにお城の北側に出られるの。今はお天気続きで堀に水が張っていないから、直接城壁を登れるわ」
「の、上るんですか?」
「うん。慣れないと大変だけど、頑張ってね」
そこからは無言で、息をひそめて堀まで向かった。しかし、お堀に着いたところで、まずお掘を降りるのが一苦労だ。縄梯子でも使うのかと思いシュピネさんの様子をうかがうと、彼女は「見て」とある場所を差し示す。
そこには、周囲になじみすぎて見えないほどの、小さな階段状の足がかりがあった。
「こんなの、あるって知らないと誰も気づかないわよね。もしもいざ戦争になったらいったん埋めるらしいけど、よくこんなこと思いつくものだわ」
「すごいですね……気を付けないと降りる途中でも見失いそうです」
前を進むシュピネさんに歩調を合わせてゆっくりと階段を降り、なんとかお堀の底までたどり着いた。
すると、シュピネさんは変わった形の笛を取り出して吹いた。そんなことをしては門衛に感づかれるのではないかと驚いたが、その笛はピィという笛らしい音ではなく、まるで夜の鳥の鳴き声のような低い音で響き渡った。
長めに3回鳴らしたところで、ふいに上から縄梯子が下りてくる。
「あとは上がるだけね。あたしが下を行くから、上だけ見てれば大丈夫よ」
私は緊張に震える手で不安定な梯子を掴み、必死で上を向いて登った。今夜は満月だ。
娼婦の一晩の目安としては、15世紀のフランスでは、一般女性がブドウ畑で働く賃金が2ブランなのに対し、娼婦が2~6ブランだったそうです(2ブランでワイン1本分程度)。しかし、14世紀以前の娼婦は法整備がされていないため、高給取りも多かったようなので、少し高めしました。貨幣価値としてはワイン1アイマ(約70リットル)が60ペーニヒという記録があったため、それを参考にしています。
ちなみに、ヤープが解剖後の死体を受け取る際は隠密の堀ルートではなく、普通に城門から入って塔の下(城壁の中)で受け取っています。城内には農奴なども出入りしているので、特に隠れて受け取る必要もなかったためです。




