もしも望むなら
「少なくとも二晩は経っていると思っていました。あの場所は本当に恐ろしくて……私は、弱いですね……」
暗闇で自分を蝕む虫たちを思い出し震える私の手を、シュピネさんはそっと撫でる。
「弱いことなんてないわ。それが当り前よ。まさかとは思うけど、ケーターみたいな化け物と比較してないわよね?」
「えっと……」
「ケーターは隠密きっての武闘派。どんな状況でも生き残る術を知っているし、精神力も段違いなの。あたしはむしろ、15歳になったばかりの女の子が、よくあの環境に耐えられたと思うわ」
言われてみれば、歴戦の猛者を比較対象にするなど傲慢であった。それでも、ふがいなさは消えない。自分だけが特別な情報に気づいて、ヨハン様の窮地を救ったつもりでいた。迂闊な行動で、ヨハン様だけでなくご領主様のお手まで煩わせて……結果がこれだ。
「シュピネさん、今の私は表向き、まだ南の塔にいることになっているんですよね?」
塔に私がいないということは、遅かれ早かればれてしまう。クラウス様が今日中に私を誘拐にくるなら、いないことに気づいたクラウス様が何もしないとは思えない。
「そうね。クラウス様には、ご領主様のお計らいで手続きより先に教会から迎えが来たと伝える予定よ。裁判の管轄はヴォルフ様で、クラウス様は連行する現場を見られないから大丈夫。ヴォルフ様については、後日偽物の聖職者に迎えに行かせて、塔の中で死んでいるあなたを発見することになるわね」
クラウス様はともかく、私にも良くしてくださったヴォルフ様をそんな形で騙すことを思うと心苦しくなった。あの方は大広間の謁見の際も、信じたくないといってくださった。きっと、罪の有無が不明のまま死んだメイドのことを思って胸を痛めるだろう。
そして、私はもうヴォルフ様にお会いすることもないのだ。
「私は今後、どうなるんでしょうか」
ここに一旦匿ってもらうにしても、父の消息も不明な今、その後どうしてよいかもわからない。クラウス様がいる以上、お城に戻ることは不可能だし、この身体では娼婦になることすらできない。
「それはあなた次第よ」
しかし、返ってきた言葉は予想外のものだった。
「あなたが望むなら、どこか遠く、国外に逃がしてもいい。ヨハン様の一筆で、何かしらの身分と職を与えられるはずよ。あるいは、ヨハン様のもとに戻るという手もあるわ」
「えっ、ヨハン様のもとでって、隠密になるということですか?」
「いいえ、確かにあなたは人を惑わすことも可能な美貌の持ち主だけど、あたしみたいに善意の人から情報を騙し取ることには向いてない。でも、それ以上に礼儀も教養も持っていて、ギリシア語も学んだ貴重な人材よ。使える可能性は無限にあるの。今まで通りメイドとしてお世話をしつつ、何かあった時だけ雑用を頼まれればいいわ」
ヨハン様のもとに戻れる、またお会いできる……それだけで目の前の霧が晴れていくようだった。
すると、私の顔を覗き込むようにして確かめてから、シュピネさんは言った。
「本当に戻りたい? あなたにとっては、国外に逃げるより辛い道になるかもしれないわよ?」
そう、以前オイレさんにも言われたこと。私はヨハン様のことが好きだ。ただお仕えする方に対する敬愛ではなく、恐れ多くも恋心を抱いてしまっている。そしてそれは決して叶うことがなく、気持ちをお伝えすることすら許されないもの。シュピネさんもオイレさんも、側にいながら決して届かぬ思いに、私がいつか感情を暴走させてしまうことを恐れている。
……それでも、私の答えはすでに決まっていた。
「戻りたいです」
別に、恋しい方と一緒にいたいという浅はかな理由からではない。今回の一連の出来事で、自分の中で確かめられた別の思いもあったからだ。
「私をここまでの行動に駆り立てたのは、確かに恋する気持ちがあった故です。でも、私はあの手紙を書いたとき、ヨハン様の御身に何かがあったらということが何より怖かったんです。ヨハン様をお救いするためならどんなことだってできると思いました。所詮は素人ですので、結果は伴いませんでしたが……もし今後自分の気持ちに苦しめられることがあろうと、ヨハン様を傷つけるような行動だけは起こさないと、今なら私は誓えます」
私の返答を聞いて、シュピネさんは少し驚いたように目を瞠ったが、すぐに穏やかな微笑みを艶やかな唇に湛えた。
「そこまで言うなら、誰も文句は言えないわね。というか、あたしが言わせてやらないわ。じゃ、決定!」
「ありがとうございます!」
「とはいえ、まだすぐに動くわけには行かないから、しばらくここにいてね。状況が落ち着いたら、一緒にまた北の塔に向かいましょ」
「わかりました。しばらくお世話になりますが、よろしくお願いいたします」
「そんなかしこまらなくていいのよ。さ、あなた徹夜だったでしょ? ベッド使っていいからちょっとお昼寝でもしてて。あたしはまだやることがあるから」
シュピネさんはいつの間にか結い終えていた私のおさげをちょんちょんと引っ張ると、元気に部屋を出ていった。
その姿を見送ってからベッドに座り……私はそのまま倒れこんでしまった。想像以上に疲れ切っていたのだな、というぼんやりとした思考さえも、すぐに静寂に沈んでいった。
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【補足】
裁判について、この時代の裁判には通常の裁判と神明裁判があるのですが、ヘカテーは隠密、つまり嘘をついている疑いがかけられているため、通常の裁判は受けられません。
迎えに来るのが教会関係者になるのはそのためです。




