蜘蛛の巣
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シュピネさんに急かされて向かうと、城門にはいつもいるはずの門衛がおらず、あっけなく城を出られた。真っ暗な街は静かで、私は自然と、足音をたてないように注意して進む。
城をだいぶ離れて裏道に入ったところで、小声でシュピネさんに聞いてみた。
「あの、門衛の方がいなかったようですが……」
「ふふふ、悪いことしてくるって言ったでしょ? 野暮なことは聞かないものよ」
はぐらかされてしまった。
とはいえ、戻ってきた彼女に怪我や返り血などはなかった。いくら優秀な隠密であっても、華奢な女性が面と向かって戦って門衛に勝てるわけはないので、荒っぽいことはしていないだろうと思う。
「よし、着いた。ようこそ蜘蛛の巣へ!」
今までレーレハウゼンで生きてきたが、入ったことのなかった裏街、その奥に彼女の拠点はあった。表に黄色い布の掛けられた、簡素な建物。娼館だ。
「こっちに来て。部屋に着くまでは静かにね」
シュピネさんに案内されて娼館の奥へと進む。静かだが、何人もの人の気配がした。居る者すべてが認識されることを拒み、互いに互いを無として扱うことを暗黙の了解とする独特の雰囲気。私には、生涯縁のない場所だと思っていた。
辿り着いた部屋は、思っていたよりも広い。表の簡素さに比べて、内部は壁も家具も装飾が多く、店に陳列するように服やアクセサリーが並べられている。これも演出の一つなのだろう。
「お疲れ様。もう喋って大丈夫よ、ヴィオラちゃん。あ、ヘカテーちゃんのがいいのかしら?」
シュピネさんはそういって笑いかけながら、当たり前のように私のマントルを脱がせて、椅子に座らせてくれた。お若いのにまるでお母さんのようだ。私にお母さんの記憶はないけれど。
「呼びやすい方で大丈夫です。私も今の自分の立場がどうなっているのか、よくわからないので……」
「じゃ、ヘカテーちゃんにする! そっちのが聞きなれてるの。それより、お腹が空いてるんじゃない? 温かいものはないけど、とりあえずこれでも食べて」
目の前でパンが皿におかれ、白ワインが注がれるのを見て、私はやっと空腹感を覚えた。
「ありがとうございます」
パンを手に取って口に含む。ほんのりと甘く、粘るような口当たりを感じると、ひとりでに涙が溢れてきた。今度は絶望の涙ではない。安堵の涙だ。
「う……シュピネさん……ありがとうございま……助けてくださって、本当に……うあ……」
静かな嗚咽はどんどん大きくなり、私はパンを掴んだまましゃくりあげるように泣いた。シュピネさんは私を背後から抱きしめ、文章にならない私の言葉を、うんうんと頷いて聞いてくれている。
「よく頑張ったね、えらかったね。もう大丈夫だからね」
暖かい。柔らかい。誰かの腕に抱きしめられながら大泣きするなんて、いつぶりだろう。咽びすぎてえずくぐらいに泣いている私を、シュピネさんはただずっと抱きしめたまま、落ち着くまで待ってくれた。
しばらくして、呼吸が落ち着いてくる頃には、窓からほんのり夜明けの光が差し込んできていた。
「そうだ、お風呂に入ってこようか。そのほうが落ち着くでしょ」
「お風呂、ですか」
「そうよ、ここは娼館だからね。たらいじゃなくてちゃんとしたお風呂があるのよ。あたしもさっぱりしたいし!」
シュピネさんに浴場まで案内され、服を脱ぐと、初めて自分の悲惨な姿を目の当たりにした。そこらじゅう傷だらけのできものだらけ、手首や足首には縄の跡がくっきりと痣になっている。水面に映る顔を見ると、目と口の周りが赤く腫れ、少し爛れているようだった。これがボサボサの頭で土埃を被っていれば、墓場から出てきた幽霊と思われるかもしれない。
シュピネさんの方を伺うと、ヴィーナスの彫像のように美しい姿が目に飛び込んでくる。磨かれた大理石かと思うほど滑らかなその肌と、自分の肌を比較して、少し惨めな気持ちになってしまった。
「ふふ、何見てるの?」
「あ、いえ、すみません……綺麗だなと思って……」
「その言葉そのまま返すわ。仕事柄色んな女の子を見てきたけど、ヘカテーちゃんはとんでもない逸材よ。数年後が楽しみね」
彼女は私の肌の惨状には一切触れない。温かいお湯を贅沢に使って身を清めながら、沈黙が苦にならない程度に、なんてことのない雑談をするだけ。
湯浴みを終え、彼女は布ときれいな服も貸してくれた。血や膿がつくといけないと思い断ろうとすると、気にしないで良いと言って私の身体を拭き、さらには薔薇水まで出してきてくれた。お湯でも沁みる状態だったので使えなかったが。
部屋に戻りお礼を言うと、シュピネさんは私に椅子をすすめ、まだ乾ききらない髪の毛を結い始める。
「あの、そこまでしていただかなくても……」
「気にしなくていいのよ。こういう時は、思い切り甘えて、誰かに触れていたほうが早く落ち着くもの。それと、ヘカテーちゃんのことはしばらくここで匿うつもりだから」
「え、大丈夫なんですか? その、お仕事に影響とかは……」
「うん、この部屋にいる限りは大丈夫。念のため、普通の客が間違って来たりしないように、赤毛のアホが連日通い詰めてるわ。そんなことより、まずは説明が必要よね」
丁寧な手つきで髪を結いながら、シュピネさんは言った。
「今回のこと、全部クラウス様が仕組んだことなのは、ヘカテーちゃんもわかってるでしょ? でも多分、最初からこうなるはずじゃなかったの。予定が大きく狂ったのは、あなたの手紙が原因よ。クラウス様があなたについて、どこまで把握していたのかはわからないけど…きっと途中で大幅に方針を変えることになっちゃったのね」
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