表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
72/340

蜘蛛の巣

ブックマークありがとうございます!

 シュピネさんに急かされて向かうと、城門にはいつもいるはずの門衛がおらず、あっけなく城を出られた。真っ暗な街は静かで、私は自然と、足音をたてないように注意して進む。


 城をだいぶ離れて裏道に入ったところで、小声でシュピネさんに聞いてみた。



「あの、門衛の方がいなかったようですが……」


「ふふふ、悪いことしてくるって言ったでしょ? 野暮なことは聞かないものよ」



 はぐらかされてしまった。

 とはいえ、戻ってきた彼女に怪我や返り血などはなかった。いくら優秀な隠密であっても、華奢な女性が面と向かって戦って門衛に勝てるわけはないので、荒っぽいことはしていないだろうと思う。



「よし、着いた。ようこそ蜘蛛の巣(あたしのいえ)へ!」



 今までレーレハウゼンで生きてきたが、入ったことのなかった裏街(スラム)、その奥に彼女の拠点はあった。表に黄色い布の掛けられた、簡素な建物。娼館だ。



「こっちに来て。部屋に着くまでは静かにね」



 シュピネさんに案内されて娼館の奥へと進む。静かだが、何人もの人の気配がした。居る者すべてが認識されることを拒み、互いに互いを無として扱うことを暗黙の了解とする独特の雰囲気。私には、生涯縁のない場所だと思っていた。


 辿り着いた部屋は、思っていたよりも広い。表の簡素さに比べて、内部は壁も家具も装飾が多く、店に陳列するように服やアクセサリーが並べられている。これも演出の一つなのだろう。



「お疲れ様。もう喋って大丈夫よ、ヴィオラちゃん。あ、ヘカテーちゃんのがいいのかしら?」



 シュピネさんはそういって笑いかけながら、当たり前のように私のマントルを脱がせて、椅子に座らせてくれた。お若いのにまるでお母さんのようだ。私にお母さんの記憶はないけれど。



「呼びやすい方で大丈夫です。私も今の自分の立場がどうなっているのか、よくわからないので……」


「じゃ、ヘカテーちゃんにする! そっちのが聞きなれてるの。それより、お腹が空いてるんじゃない? 温かいものはないけど、とりあえずこれでも食べて」



 目の前でパンが皿におかれ、白ワインが注がれるのを見て、私はやっと空腹感を覚えた。



「ありがとうございます」



 パンを手に取って口に含む。ほんのりと甘く、粘るような口当たりを感じると、ひとりでに涙が溢れてきた。今度は絶望の涙ではない。安堵の涙だ。



「う……シュピネさん……ありがとうございま……助けてくださって、本当に……うあ……」



 静かな嗚咽はどんどん大きくなり、私はパンを掴んだまましゃくりあげるように泣いた。シュピネさんは私を背後から抱きしめ、文章にならない私の言葉を、うんうんと頷いて聞いてくれている。



「よく頑張ったね、えらかったね。もう大丈夫だからね」



 暖かい。柔らかい。誰かの腕に抱きしめられながら大泣きするなんて、いつぶりだろう。咽びすぎてえずくぐらいに泣いている私を、シュピネさんはただずっと抱きしめたまま、落ち着くまで待ってくれた。


 しばらくして、呼吸が落ち着いてくる頃には、窓からほんのり夜明けの光が差し込んできていた。



「そうだ、お風呂に入ってこようか。そのほうが落ち着くでしょ」


「お風呂、ですか」


「そうよ、ここは娼館だからね。たらいじゃなくてちゃんとしたお風呂があるのよ。あたしもさっぱりしたいし!」



 シュピネさんに浴場まで案内され、服を脱ぐと、初めて自分の悲惨な姿を目の当たりにした。そこらじゅう傷だらけのできものだらけ、手首や足首には縄の跡がくっきりと痣になっている。水面に映る顔を見ると、目と口の周りが赤く腫れ、少し爛れているようだった。これがボサボサの頭で土埃を被っていれば、墓場から出てきた幽霊と思われるかもしれない。


 シュピネさんの方を伺うと、ヴィーナスの彫像のように美しい姿が目に飛び込んでくる。磨かれた大理石かと思うほど滑らかなその肌と、自分の肌を比較して、少し惨めな気持ちになってしまった。



「ふふ、何見てるの?」


「あ、いえ、すみません……綺麗だなと思って……」


「その言葉そのまま返すわ。仕事柄色んな女の子を見てきたけど、ヘカテーちゃんはとんでもない逸材よ。数年後が楽しみね」



 彼女は私の肌の惨状には一切触れない。温かいお湯を贅沢に使って身を清めながら、沈黙が苦にならない程度に、なんてことのない雑談をするだけ。


 湯浴みを終え、彼女は布ときれいな服も貸してくれた。血や膿がつくといけないと思い断ろうとすると、気にしないで良いと言って私の身体を拭き、さらには薔薇水まで出してきてくれた。お湯でも沁みる状態だったので使えなかったが。


 部屋に戻りお礼を言うと、シュピネさんは私に椅子をすすめ、まだ乾ききらない髪の毛を結い始める。



「あの、そこまでしていただかなくても……」


「気にしなくていいのよ。こういう時は、思い切り甘えて、誰かに触れていたほうが早く落ち着くもの。それと、ヘカテーちゃんのことはしばらくここで匿うつもりだから」


「え、大丈夫なんですか? その、お仕事に影響とかは……」


「うん、この部屋にいる限りは大丈夫。念のため、普通の客が間違って来たりしないように、赤毛のアホ(・・・・・)が連日通い詰めてる(・・・・・・)わ。そんなことより、まずは説明が必要よね」



 丁寧な手つきで髪を結いながら、シュピネさんは言った。



「今回のこと、全部クラウス様が仕組んだことなのは、ヘカテーちゃんもわかってるでしょ? でも多分、最初からこうなるはずじゃなかったの。予定が大きく狂ったのは、あなたの手紙が原因よ。クラウス様があなたについて、どこまで把握していたのかはわからないけど…きっと途中で大幅に方針を変えることになっちゃったのね」

総合ポイント120ptを達成しました。読んでくださる皆様に支えられて続けられています。これからも頑張って楽しんでいただける物語を紡いでいきますので、よろしくお願いいたします!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ