調理場の真実
どんな光景が広がっているかもわからない場所へ一人で行く恐怖に体を震わせつつ、意を決して部屋を出ると、当たり前のようにヨハン様もついてきてくださった。
「俺は悪魔と呼ばれているらしいな」
だが、ついて来てくださったからといって恐怖が軽減されるわけでは全くない。道すがら振られた話題は最悪だ。悪魔という言葉に背筋を凍らせながら、私は何とか受け答えをする。
「はい……恐れながら私もその話は少し聞いたことがあります。失礼な人たちがいるものですね……」
「別に侮辱されたとは思わん。恐れられていたほうが便利なことも、時にはあるものだ。そのおかげでこの塔を丸ごと一人で使えているわけだしな」
そう言われてみれば、ヨハン様のご境遇は不思議である。他者との接見は許されておらず、私が来るまで従者一人連れていらっしゃらなかったが、塔の中ではかなり自由が許されているご様子。お食事の内容の良さといい、私を所望してそれが通るところといい、ヨハン様は幽閉中の身にありながらも随分と周囲に気を使われている……もっと言えば優遇されている気がする。よく考えれば、裁判によって断罪されたわけではないので、貴族としての地位を失っているわけでもない。幽閉というには緩く、軟禁というには厳しいような、ただ隔離されて閉じ込められているだけの環境で、6年もの歳月を過ごされているのだ。
「俺は名誉よりも実益を求める主義だ。ここで一人で生活することが、今までは一番合理的だった。だがそろそろ状況が変わってきている。読み書きができ、ある程度使える頭をもった、公にここに居ておかしくない者が欲しい。お前が来たのは正に僥倖だったわけだ」
何をおっしゃりたいのかは不明だが、どことなく引っかかる言葉だった。まるで政治か何かのお話をされているようで……血まみれで出てきたこと、本について私に尋ねていらしたことと、話の流れに一貫性がない。
ともあれ、すぐに調理場の前についた。半開きのままだった扉から、生臭さと酸っぱさが混じったような悪臭が漂い、鼻を衝く。正直、調理場からしてきて良い類の臭いではないと思う。
「ヘカテー、お前は肉の下処理はしたことはあるか?」
「一度だけ、鳥の羽根毟りならしたことがあります。あまり得意ではありませんでしたが……」
「そうか。では、吐くなよ?」
そういってヨハン様は扉を開け放たれた。
同時に目に飛び込んできた光景は凄惨なものだった。
赤黒い血に濡れた調理台の上には、やはり血まみれの大小さまざまな刃物が並べられている。その横には切り刻まれた臓物らしきものが、小分けにされて散らばっていた。
そして何より、大の字で床に横たえられている影の輪郭は非常に小さく……
「うぶっ」
両手で口を押さえ、吐きそうになるのを必死で飲み込む。
背格好からして5~6歳だろうか。塔の中に連れて来られたことにも気づかなかった。罪を犯すような年でもないだろうに、どうしてあんな小さな子が切り刻まれなくてはいけないのだろう。
できるだけ天井を見るようにして気をそらしても、今度は吐き気の代わりに涙がにじみ出てきてしまう。せめて最初の一撃で気絶してくれていたことを願う。
「やはりダメだったか。まぁそのうち慣れろ」
ヨハン様はそういって私の背中を軽く叩かれるが、慣れるわけがないし、慣れてはいけないと思う。
「ちょうどよい機会だと思ったのだが、よく考えればこれは人に似ている分、刺激が強かったかもしれないな」
「え?」
人に似ている……要するに人ではないということだろうか。
疑問が顔に出ていたのか、ヨハン様はすぐに説明してくださった。
「あれは他国から届けられた猿という生き物だ。非常に珍しい。ここに届けられた時点ですでに死んでいたから、少し臭いがきついな」
恐る恐る近づいてみると、子供と思った床の死骸は全身に黄金の毛が生え、長い尾がついていた。
「あの、失礼ながら……ここでは一体何をされていたのでしょうか」
食べるためなら料理人に届ければよい。人間ではなくて少しほっとしたが、やはり切り裂くのがお好きなのだろうか。
「解剖だ」
「カイボウ……ですか」
「そうだ。腹を切り開き、身体の中身を直接見て、どこにどんな器官が備わっているかを調べていた。調理場は換気もできるし、ごみもすぐに捨てられる。解剖を行うのにはぴったりの場所だ」
改めて調理台の上を見ると、精緻な素描が描かれた紙が数枚置いてあった。どれも臓物の配置や形を写したもので、絵の横に細かく書き込みがされている。
「解剖自体は今後も俺がやるつもりだ。ヘカテー、お前は資料を作ったり、文献を集めるのを手伝え」
「どこまでお役に立てるかわかりませんが……」
「ああ、すぐに役に立つとは俺も思っていない。必要なことは俺が教えてやるから、少しずつ慣れろ。まずは、そうだな」
ヨハン様は思い出したように付け加えられた。
「湯で濡らした布を頼む。それができたらここの掃除だ」
私は腑抜けた顔で頷くしかできなかった。今日は本当に、運が悪い。