勇敢な者
大道芸の観覧にお誘いした日から、ベルンハルト様は頻繁に私を雑談に呼ぶようになった。触れられるも増えたが、子犬をかわいがるような他愛無いもので、今のところ閨に招かれることはない。
「ヴィオラ、いつもそれをつけてくれているな。嬉しいぞ」
ベルンハルト様は私の首元を指して笑う。街歩きの帰りにいただいた、七宝の首飾りだ。
「ベルンハルト様にいただいたものですから、つけていたくもなります」
もちろんこの言葉に嘘はない。ご厚意は純粋に嬉しいものであったし、これを付けていることによって、自分は今ベルンハルト様のものなのだという自覚を持つことができる。
「……君の言葉はいつも私の心を動かす。参ったものだな」
夕食がご客人を招いての会食であったせいか、ベルンハルト様は少し酔っていらっしゃるようだった。
「私が唯一誇れるものは人を動かす力だと今まで思っていた。それを前面に出すことで、自分の価値を世に示して来たつもりだ。しかし、最近自分もまた動かされる側の人間でもあるのだと思い知っているよ」
「それは、何か問題なのでしょうか?」
「何って、人の上に立つ者とは、揺るがぬ者であるべきだと思わないか?」
「いえ……それが唯一、とは私には到底思えませんが、ベルンハルト様は確かに人を惹きつけ、動かすような力をお持ちです。もし、他人を動かすだけでご自分が誰の影響も受けないなら、それは少し横暴で、あまり良いこととは思えません」
「そうか。思いもつかない意見に驚いた。理想的な君主を目指すべく、自分の中に軸を持とうとしていたのだが、どうやらまたやり直さなくてはいけなさそうだな」
「そんなことはございません、すでに君主たる資質をお持ちだと思います!」
「確かに必要十分な資質を持ってはいるのかもしれない。だが私はあまりに中途半端なのさ」
ベルンハルト様は少し目をそらすと、まるで独り言のように語り始めた。
「何故私は熊のように勇敢な者という名なのだろうな」
「ご領主様のお考えなど私にはわかりかねますが……少なくともベルンハルト様は、そのお名前に相応しい勇敢さをお持ちだと思います。私も、先日のフィーニも、以前からベルンハルト様の逸話は存じておりましたから」
「ありがとう、でもそういう話をしているのではない。私はよく、自分が皆に何を望まれているのかがわからなくなるのだ」
「何を望まれているか、でございますか」
それは、単に選帝侯の地位を継ぐこと、という意味ではなさそうだった。
「祖父上、つまり前のイェーガー方伯は、稀代の傑物だったそうだ。今このイェーガー方伯領が帝国でも類を見ないほど栄えているのは、祖父上の活躍によるところが大きい。領土の拡大はもちろん、拡大するごとに交渉で遺恨を残さず、貿易の活性化で帝国を潤わせ、更には教会の補助や救貧院の設置、税制改革など、民に慕われる君主として名高かった」
もちろん、私にもいつも暖かく接してくださっていた、とベルンハルト様は目を細めて付け加えられた。
「父上も優秀だが、君主としての在り方は真逆の方だ。祖父上の作り上げたものを合理的に制度化していき、この地を拡大期から安定期に持ち込まれたことが父上の功績だと思う。自分にも他人にも厳しく、私はこの城で、父上の笑顔はほとんど見たことがない。城の外となかで変わらぬ確固たる厳格な姿も、私は尊敬している」
この城に勤めて1年に満たないこともあり、私はご領主様を間近でお見かけしたことはない。厳格という噂は特に聞いていなかったが、幽閉中のヨハン様に隠密の管理を任せ、時々お仕事をお渡しになるというからには、かなり合理的な考え方をされる方なのかもしれない。
「そんな二人の後を継ぐ私につけられた名がベルンハルトだ。その誇り高き名に恥じぬよう、最初私は『正義のもとに勇敢に戦う者』と自分を定義づけ、そのようにふるまっていた。そのことを誰しもが称賛した」
ベルンハルト様はここで一度一息つくと、視線を私に戻した。その顔を見て、私は驚いた。泣き出しそうな顔をされている。
「しかし、妹が亡くなり、彼女と仲良しだった弟は、血に狂うようになってしまった。私は憐れむよりも恐怖したよ。一桁の年のころから学者と渡り合っていたような聡明な弟が、目につく生き物を皆切り裂き、人の血を求めて城内や街を彷徨っているというのだから。母からも笑顔が消え、使用人たちが怯えて過ごすようになった頃、父上は彼を塔に幽閉した……そしてそんな皆の反応を見て、私は一度決断したのだ。弟の行動を終わらせてやろうと」
「ベルンハルト様……?」
「その決断を、皆勇敢だと言った。勇敢で、本物の優しさにあふれた崇高な決断だと。そして、私の代わりに自らの手を汚すことを名乗り出てくれる者たちがいた。最初は毒で、次は剣で。結果、二人とも帰ってこなかったのだよ。人の上に立つとは、そういうことだった」
「ベルンハルト様!」
空色の瞳から、静かに雫が滴り落ちる。それは天気雨のように、紅潮した頬に幾本かの筋を作っていた。




