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新しい主

 それから2日間、ヨハン様とはこれと言って会話をする機会もなく過ぎていった。接触はお食事の配膳と片付けのみ。わざと私と会話することを避けていらっしゃるようだ。


 そうなると当然、部屋でやることも特にない。掃除や片付けも終わっているので、結局私がやることは、ギリシア語の翻訳だけだった。祖父の本はすでにお渡ししてしまっているので、まだお返しできていない「体部の有用性」を、塔を去るまでにできる範囲で翻訳することとする。


 尤も、ヨハン様は完全版の17巻の方を読破していらっしゃるご様子なので、私の翻訳がヨハン様のお役に立つわけではない。ただ、何かしていないと耐えられない日々であるのと、いずれ私以外の助手が付く可能性を考えてのことだ。たとえばオイレさんなどは、普段使う言葉で読み書きはできてもギリシア語はできないので、翻訳済みの資料があれば手助けになるかもしれない。


 朝のお食事を受け取りに居館へ向かうと、塔のそばに二つの人影が見えた。城壁付近から城の外を眺めて何かを話しているようで、逆光になっているが、私はその片方を見て驚いた。



「え、ヨハン様!?」



 ヨハン様は、塔の外へ出ることは許されていないはずだ。驚きに思わず声を漏らした私に気づいたのか、人影はこちらへと近づいてきた。


 すると、近づいてくるにつれ、ヨハン様より背が高くがっしりとした体躯であることが見て取れた。そして、お顔の造作こそどことなく似ているが、もっと自信に満ち溢れた雰囲気を纏い、まばゆい黄金の髪と、晴れた空のような碧い瞳をしている。


 私は思い違いに気づくとともに、その人が誰であるかに思い至り、慌てて立ち止まり頭を下げた。



「塔から誰か出てきたと思えば……黒い髪に黒い目、君が噂のヨハンの愛人か」



 笑顔で親しげに声を欠けてきたその人は、ベルンハルト・フォン・イェーガー様、ヨハン様のお兄様だ。私がこの城に来る前から国境の守備に出向かれており、お見かけするのは初めてだった。どうやら私の言葉までは聞き取れていなかったようで、私は少しほっとする。


 ベルンハルト様は街の庶民にも有名な方だ。方伯の跡継ぎという高位にありながら、人望の厚さとともにその武勇でも名高く、自ら先陣を切って軍を鼓舞するという『黄金のベルンハルト』の二つ名は、すでに宮廷で轟いていると聞いたことがある。その噂から、私はもっと武人然とした方だと思っていたが、目の前のご本人はさわやかな好青年といった印象である。



「あいつが側に女性を置いたと聞いたときは驚いて椅子から転げ落ちそうになったが、実際に見ると納得だな。異国の令嬢も何度か目にしたことはあるが、こんな美人は見たことがない。なぁ、クラウス?」


「ええ」



 先ほどから隣にいらっしゃったのはクラウス様だった。クラウス様は短く答えて微笑み、私を見やる。



「もったいなきお言葉にございます。ただ恐れながら、私は一介のメイドにすぎません。塔でのお勤めも本日が最後になりました」


「なんと、言葉遣いも完璧じゃないか! 流暢なだけでなく丁寧だ。もしかして、君は異国の貴族の娘なのか?」


「いえ、私はただの商人の娘にございます。異国の血を引いてはおりますが、物心ついた時からレーレハウゼンで過ごしておりました」


「ではこれが母国語ということか。知らずに流暢などと言ってしまい悪かったね。しかし、見た目だけでなく、所作も言葉も美しいので驚いたよ。君を異国の貴族として紹介しても、疑う人はいないだろう」


「過分なお褒めにあずかり光栄です」



 ベルンハルト様はヨハン様と対照的だった。貴族らしい上品さを持ちながらも、その笑顔は晴れやかで人懐っこさを感じる。ピンと張った背筋はいかにも頼れそうな雰囲気があり、老若男女共に人気が高いことは容易に想像できた。



「それにしても……さっき、塔でのお勤めは今日が最後といったか?」


「はい、さようでございます。明日より居館に戻り、お仕事をさせていただく予定です」


「なんと!」



 嬉しそうな反応に、私は少しだけ悪い予感がした。



「クラウス、居館のメイドは人員不足で困っているか?」


「いえ、緊急を要するほどの人手不足という話は聞いておりません」


「それはよかった!」



 クラウス様に確認したベルンハルト様はこちらに向き直ると、私の両手を取ってご自分の手の中に包んだ。



「今日、こんな形で君と会えたのは、きっと運命に違いない。よかったら私付きのメイドになってくれないか? 君がいてくれたら、私はきっと、今よりもっと楽しい日々を過ごせると思うんだ」



 どうだろう、と尋ねてくださるが、ご領主様の長男様が望まれていることに対し、使用人に拒否権などあるわけがない。ちらりとクラウス様の様子をうかがうと、促すように頷いていらした。



「そのようなお言葉を頂戴し光栄です。私などに勤まるかわかりませんが、よろしくお願いいたします」



 私の返答を聞いて、ベルンハルト様は手を握ったまま上下に振って喜びを表現された。



「そういえば名前はなんという?」


「ヘカテーと申します」


「なんだと? たしか死神の名じゃないか。君の祖国では普通の名前なのか?」


「いえ、この名前はヨハン様につけていただいたものです。もとはヴィオラと……」



 ヨハン様の名を出した瞬間、ベルンハルト様の表情は一気に曇り、私が話し終わらないうちに長い溜息をつかれた。



「なるほど……いかにも悪趣味なあいつがやりそうなことだ。もうその名前は名乗らなくていい」



 そう聞いて胸がずきりと痛む。ベルンハルト様の発言はただの思いやりゆえとわかっているが、私にとってはヨハン様との繋がりが完全に断たれてしまうような絶望感を伴う言葉だった。



「大変だったね、ヴィオラ。大丈夫だ、私は君を大切にする。明日から一緒に過ごすことを楽しみにしているよ」



 呆然としている私の髪を軽く撫でると、ベルンハルト様は去って行かれた。連れ立って遠ざかるクラウス様の満足げな表情が妙に印象に残る。



 ―― クラウスも打診しているといったな?お前ならその意図をわかるはずだと思ったが?



 オイレさんが私を居館に戻すことを伝えた時のヨハン様の言葉が、なぜか脳裏をよぎった。もしかしてクラウス様は、最初から私をベルンハルト様のお付きにしたかったのだろうか。そうだとしたら、一体なぜ?


 しかし、その疑問の答えを出す術が私にない。黙って居館にお食事をとりに行くほかなかった。

ついにベルンハルトの登場です。急展開に困惑する方もいらっしゃるかと思いますが、広げた風呂敷はきちんとたたみますので!

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