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汚れた手

 食事をとりに行く頃には、もう掃除すべき場所など残っていなかった。明日と明後日をどう過ごすべきなのか、私には見当もつかない。こういうところが本当に愚かだと、自分で自分が可笑しく思える。



「失礼いたします。お食事をお持ちいたしました」


「入れ」



 返ってくる言葉はいつも同じ。この一言を聞けることが、どんなに幸せであることか、いままで考えたこともなかった。



「ひどい顔だな」


「急に居館に戻るお話が来たもので、夜通し片付けをしておりました。普段から整頓していればそうはならないところ、お恥ずかしい限りです」


「ふん、お前はかなりのきれい好きだと思っていたが……まぁ良い」



 嘘をついていることは当然バレているだろう。しかし、追求してこないということは、糾弾する必要はないと判断されているということ。もしかして私の気持ちまで分かってしまわれているのではないかと、少し不安になる。



「あの、お食事中に申し訳ございません」



 配膳を終えたところで、恐る恐る声をかけてみた。ヨハン様は相変わらず美しい所作で食事を取りながら、対応してくださる。



「何だ?」


「実はこれを、お受け取りいただけないかと思いまして」



 差し出した本を見て、少し眠たげだったヨハン様の眼は一気に見開かれ、動きが止まった。



「これは、お前の祖父の形見だろう。おいそれと貰うわけにはいかない品だ」



 そういって付き返そうとされる手に、半ば強引に本を押し付ける。



「お気遣いいただきありがとうございます。しかし、この本は私が持っているよりも、ヨハン様のお手許にあってこそ、生きるものだと思うのです」



 ヨハン様はまだ本を受け取らずにいるが、私はあえて構わずに続けた。



「私は以前申し上げました。今の私には夢ができたと。この塔で働かせていただいている間は、私はこの国の未来を変えるような知恵にも、直接触れることが許されておりました。しかし、これからはそうはいきません。その本には異国の薬学の知識が詰まっておりますが、私が持っていても思い出以上の役割を果たしてはくれないことでしょう。その本が本来の役割を果たすためには、私ではなく、ヨハン様のお手許にあるべきだと思います」


「……お前は、もっとここで医学を学びたかったか」


「いえ、私にとって学ぶ者が誰であるかは関係ないのです。もとはただの商人の娘、何者になろうとも思ってはおりません。私の夢はただ、ヨハン様の夢が成されることですから」



 手を動かすのは、別に俺である必要はない。市井から無能な医師が消え、まともな医師が増えればそれで良い……以前ヨハン様は、そういって夢を語られた。理由は違えど、今の私も同じだ。



「つくづくお前は面白い。しかし、オイレの言う通り、俺のそばにいるのは不向きであったかもしれんな」



 ヨハン様は初めて会った時のような悪辣さをもった笑みを浮かべると、目をそらしながらおっしゃった。



「今のお前には、俺が民の命を救うために身を削る聖人にでも見えているのだろうな。しかし、よく思い出せ。俺はお前の年の頃には、すでに二人の人間を切り裂いている」


「解剖は医学の発展のために欠かせないことです。人の身体を知らずして、どうして人の身体を治せましょうか」


「違う。解剖のために死体を引き取ったのではない。自分の家に仕えるメイドと侍従を、俺は手ずから殺したのだ」



 思わず息を呑む。解剖のことを知ってから、あの話(・・・)についても、ただ人間の死体を用いて解剖をしたのだとしか考えていなかった。死んだのがメイドと侍従だとは聞いていたが、そのふりをした賊を隠密が片付け、ヨハン様は死体を有効活用(・・・・)したのだろうと勝手に思い込んでいた。そう、この間私を襲ったカールさんの死体で解剖を行った時のように。



「俺はお前に語ったな。医学を学び始めたのは、姉上の死がきっかけだったと。確かに最初は、一人でも多くの命を救おうと、無能な医師をこの国から排し、自らが教え導こうと異国の医学を志した。しかし、学問とて欲だ。学び続けるうちに、もっと知りたい、まだ足りないという声が頭に鳴り響き、自らを蝕んでいく。声は次第に大きくなり、抑えることができなくなる」


「ヨハン様……」



 ヨハン様は気づいていらっしゃるのだろうか、目をそらしたまま語るその声が震えていることに。透き通るオリーブの瞳が、私を見ないように弱々しく揺れ、自罰的な哀しさに染まっていることにも。



「失望したか? 俺はこの家に長年尽くしてきた二人を敬いもせず、その中身を見たい(・・・・・・)という欲のままに切り裂いただけだ。そのうえ今は、父上から穢い仕事を請け負うことを条件に死体を切り裂くことを許され、喜んでその立場を受け入れている。俺はただの知識に憑りつかれた獣だ。お前が思うような人間ではない」



 わざとらしく声を荒げるヨハン様に、返す言葉を考えることはできなかったが、それでもここで引こうとは思えなかった。


 無言のまままっすぐとその横顔を見つめ、本を押し付け続ける私を見て、ヨハン様は根負けしたように本を手に取り、少し呆れたように笑う。



「わかった、これはありがたく受け取ろう。だが、俺の手は血で汚れきっている。あまり俺に夢を見てくれるな。お前のその目は、俺には少し痛みが過ぎる」

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