薬か毒か
結局そんな状態で眠れるわけもなかったが、眠れないことはかえって都合がよくもあった。私がここにいられるのはたった3日。この短い時間で許される限りヨハン様のお役に立つには、睡眠時間など邪魔以外の何物でもなかったからだ。
しゃっくり上げて咽ぶ自分を叱咤しながら、頭ではなくひたすら手を動かすことにした。この塔で働くために貸し与えられたこの部屋は、元々空き部屋であり、ヨハン様が使っていらしたわけではない。ヨハン様は必要ない事柄に関しては無頓着なので、きっと私が去った後は、何かで入り用になる機会があるまで放置されるのだろう。私物を片付けるだけでなく、私が今まで訳してきた「体部の有用性」の資料や、解剖の時にまとめたメモの残りなどを整理し、いつかこの部屋が開かれた時には2つ目の書庫のような形で使えるようにしておこうと思った。
落ち着いてきたと思ってはぶり返してしまう私の泣き声は、4階まで聞こえてしまっていないだろうか。夜遅くまで起きていらした分、ヨハン様の眠りは深いだろうとは思いつつ、反響の大きい石造りの階段のことを思うと少し心配ではあった。
整理するとはいっても、さすがに、ほんの数か月で私が残せたものなどあまりない。お借りしていた本をお返しするのと一緒に、まとめて書庫に移動したほうがいいかもしれない。
とりあえず種類別に資料をわけて机の上に置き終えると、部屋を徹底的に掃除することにした。蝋燭の明かりでは汚れも見づらいので、あまり効率的な作業とは言えないが、どうせ明日も多くの仕事があるわけではない。日が昇ってからやり直すくらいの方が気が楽だ。
頭がくらくらとするのは、泣き過ぎたせいだろうか。蝋燭の臭いにやられた可能性もあるので、どこかのタイミングでセージの葉を少しいただいて来よう。生肉の臭いに効くのなら、獣脂の臭いにも効くだろうし、虫よけの意味もある。
そういったことを教えてくれたのもヨハン様だったと思い出して、せっかく落ち着きかけてきた瞼がまたむくみ始めた。
ふと手を止めて、片付けた私物を眺めてみる。その中で異様な存在感を放つ、父が私に残していった不思議な本。今の私にとっては唯一の家族とのつながりだ。
しかし、この本は薬学に関するもの。私がただ思い出として持っているよりも、ヨハン様に差し上げた方が遥かに有効に使ってくださるだろう。それに、オイレさんは必ず父を見つけ出すと約束してくれた。あの人は奇矯なところがあるが、信頼できる隠密である。きっと、私がヨハン様のもとを離れたとて、約束を反故にするような真似はしないはずだ。
私物をあつめた袋から本を取り出し、パラパラとめくってみる。使い慣れた羊皮紙とは異なる、ざらつきの目立つ手触り。どこで文節が区切れるのかすら見当もつかない、縦に書かれた不思議な黒い文字は、人間の体質の調べ方からはじまり、体調を整えるのに有用な薬の調合を語っているはずのものだ。
傍らの書きこみ曰く、人間の身体には、「血」と「水」と「気」が巡っており、それらが滞ると体調を崩すという。これはガレノスやヒポクラテスが書いていた「四体液説」というものと似ている。
構成するものの分け方が3種類しかない点では四体液説より曖昧だが、この本の調べ方ではさらに、体質や症状として現れるその人の状態を見るようだ。その分け方が複雑で、虚と実であったり、光と陰であったり、寒さと熱であったりと、ものさしが複数ある。
そして、この判断を間違えると、薬として与えたはずのものが毒に転じることもあるらしい。おそらく祖父も翻訳に困ったのだろう、このあたりの言葉は音をそのまま写したものが多く、意味がわかりづらかった。
そう、祖父は父のためにわざわざギリシア語で解説している。ということは、父もこの文字は読めないのだろう。ならば、この文字を読める祖父、ギリシアよりもさらに遠くの血をひいた祖父は、なぜ、どこからやってきたのだろうか。そして、彼はこの帝国の大地を踏んだのだろうか。
……それにしても本当に、私は何人なのだろうか。
気づくと窓から光が差し込んできていた。目を覚ました鳥たちの声も聞こえる。
私は一度深呼吸して本を閉じると、わざと勢いよく音を立てて机の上に置いた。長く触っていると、またあの疑問がわいてきて、私を惑わせる。
幸い、この塔を去るまで、食事運びのお仕事はまだ任せていただけている。今日お部屋に伺ったら、手放す決心が揺らいでしまう前に、これをお渡しすることとしよう。
同じ薬草が、人によって薬にも毒にもなると語る異国の本。私にとってはこの本自体が、薬でもあり毒でもあった。でもきっとヨハン様なら、この本を薬としてくださるはずだ。




