使命と休息
32話「人のかたち」にて、脳の解剖の話がありましたが、解剖パートが長すぎるので省略しています。
それに伴い前回部分(35話「縫い合わせたいもの」)を改稿しました。
遺体の修復の描写があります。苦手な方はご注意ください。
絹糸で遺体の傷を縫う作業は、思いのほか重労働だった。
まず、遺体の皮というものは、これまで扱ったことがないほどに厚く硬い。布など足元にも及ばない。針はヨハン様が特別に太いものを用意してくださったので折れこそしないが、私の力では、縫い合わせようにもまず皮を貫くことができないのだ。
さらに、人の身体は重く、立体的だ。服や小物を縫うのと違い、縫う個所のみを手の中に収めて、回したり裏返したりしながら縫うということができない。
ヨハン様はヨハン様で、臓器の構造はかなり緻密であったらしく、目を凝らすように必死で観察しては絵に起こし、詳細を記述している。
私たちは必然的に無言になり、冷え切った調理場という空間を共有しつつも、それぞれひとりで作業をしている状態だ。
悪戦苦闘のうち、やり方を変えることを考えてみた。
例えば、必ずしも針を貫通させる必要はない。肉の部分は無視して浅く針を刺し、表面だけをつなぎ合わせる。これなら私の力でもなんとかなる。
次の問題は、皮の縮み。縮んでしまっている皮では、傷をふさぐには面積が足りないかと思っていたが、取り出した内臓によって中身が減っているため、そこまで強く引っ張らなくても大丈夫だ。
決して楽な作業ではない。それでも、不可能ということはない。試行錯誤することで、やり遂げるための光明は見えてきている。
とはいえ、やはり死者の肌は生者のものとあまりに違う。ヨハン様は生きた人の傷も治療のために縫うことがあると言っていたが、この経験を、実際に怪我をした人の傷を縫うために生かすことはできないだろうと思った。もっとも、私は床屋になるわけではないので、そんな機会が訪れることはないだろうが。
ひと針進めるごとに、無残な遺体は人としての姿を取り戻していく。顔の傷も縫い終わるころには、解剖用の遺体からカールさんと認識できるものになっているだろう。縫い目は縫い目で痛々しいものだが、死者の皮膚に触れる感覚にさえ慣れてしまえば、この作業は名もなき身体に個人としての尊厳を回復させることができているように感じられ、次第に恐怖感よりも責任感と誇りをもって作業に当たることができるようになっていった。
お腹の傷が縫い終わると、いよいよ頭にとりかかる。万が一後頭部をふさぐので皮を使いすぎてしまうと、皮が突っ張って顔が変形してしまうと思い、先に顔の方を縫うことにした。
顔はその人の個性を最も特徴的に示すパーツだ。もとの顔を思い出そうとすると襲われた時のことが一緒に思い出されてしまうので、精神的に厳しいものもあったが、できる限り元通りにしてあげたい。
何より、これは私にとって、この先ヨハン様の進まれる医学の道についていくための通過儀礼だ。切り裂かれた顔を復元するという作業を完遂できれば、私にとって何よりも意味のある記憶になる。それだけ丁寧に、そして真摯に向き合うべき作業だった。
しかし、やはり実際になってみるとその難しさを思い知ることとなった。
皮膚の下に均一についていた脂や肉の層が、解剖中に変形したり削がれたりしてしまったことで、縫い合わせるだけでは元の形にならないのだ。
思わず手を止めてしまっていると、ヨハン様から声がかかった。
「どうした、何か入用か? それともやはり顔を縫うのは辛いか」
視線は相変わらず手の中の臓器……たしか心臓と言うものだったはず……を熱心に探っているままだが、私の様子がおかしいことに気づいてくださったようだ。
「いえ、大丈夫です。解剖の過程で、皮膚だけでなく脂や肉も減っていたようで、縫い合わせてもなかなかもとの顔に近づかず、驚いておりました。肌がなだらかでなくなるだけで、こんなにも印象が変わってしまうものなのですね」
「そうか。肉はともかく、脂を足して形を整えることを考えてもよいかもしれん。俺の指示として、居館から持ってきても構わないぞ」
「ありがとうございます」
「顔の造作の変化についてはあまり問題視したことはなかったが……戦場の兵が負う傷などでは、肉が削げることもよくある。もしかしたらそういった傷の治療に応用できる可能性があるな」
「たしかに、もしそれができたら助かる人がたくさんいると思います」
「まぁ、今は死人だからいいが、生きている人間では思わぬ害が出ないとも限らない。慎重に調べていこう」
ヨハン様はどんな問題にも、解決法だけでなく、その先の活用法まで見出されてしまう。恐ろしい慧眼の持ち主だ。きっと、ご領主様からのお仕事を受けていらっしゃるのも、そういった才能を認められてのことだろう。
幸いまだ日が高いので、一旦居館に行って脂肪をもらってくることにした。
傷……そういえば、ケーターさんは大丈夫だろうか。手足の爪はなかったし、肌も傷やできものだらけのひどい有様だった。今も真っ暗な地階で一人閉じ込められている。血の匂いを嗅ぎつけた蛇や毒虫たちによって、あそこにいればいるほど傷は増える一方だろう。
ヨハン様は公私混同をする方ではない。ケーターさんが裏切りを疑われて拘束されている以上、地階から出すことはできないし、治療も許されない。彼の傷を癒す方法は「薬の実験台にすること」だけだ。
しかし、そんな言い訳を用意しておくあたり、やはりヨハン様は部下に甘いところがあるのだと思う。ケーターさんの行動によって作戦に問題は発生しなかったと、オイレさんは報告していた。単にケーターさんが全てを告白するまで殺せないだけかもしれないが、私はどうも、ヨハン様が証拠もなしに部下を切り捨てることができないということのような気がしている。
居館の料理人からいらなくなった脂肪をいただき、塔に戻ると、ヨハン様は椅子にもたれて寝息を立てていた。
知らずに扉を開けてしまったので起こしてしまったのではないかとドキリとしたが、起き上がる気配はない。どうやら解剖の作業は終わったようで、心臓は塩の中に戻され、周囲には沢山の紙が乱雑に置かれている。
よく考えれば、この方が解剖作業に入ったのは、徹夜続きの過酷なお仕事の直後からだった。極限までたまった疲れを無視して、ご自分の志す学問と向き合われていたのだ。
変な姿勢で眠ると体が痛くなってしまうのではないかとも思ったが、許可なく触れてお部屋にお運びするわけにもいかない。というか、触れた時点で起こしてしまうだろうし、起きなかったとしても私の力で大人の男性を運ぶのは難しいだろう。
せめて寒くないようにと、私はできるだけ静かに調理場を出て、部屋から毛布を取ってくると、その肩にかけさせていただいた。その一瞬だけ、少し薄目を開けたように見えたが、すぐにまたお眠りになったようだ。
いつも張りつめているヨハン様の珍しくゆったりとしたお姿は、こちらの緊張も抜けるような安心感があった。夕食をお持ちするまではまだ時間がある。それまで私は、私のすべきことと向き合おう。




