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縫い合わせたいもの

前半、遺体の様子についての具体的描写があります。苦手な方はご注意ください

 翌日から、オイレさんもケーターさんも解剖には来なくなった。

 脳の摘出はすでに終わっていたようだ。ヨハン様は塩漬けの臓器の中から見たいものを選んで観察する。もう大がかりな仕事はないので、オイレさんの手助けは不要なのだろう。私は相変わらず資料運びなどの手伝いしたが、ヨハン様が絵を描かれている間はやることがなくなるので、切り開かれたカールさんの肌を縫うことにした。


 しかし、いざ始めようとして……自分の甘さに気づかされた。


 カールさんが命を失って3日目。抜け殻として遺された身体は、まだ蛆こそ沸いていないようだが、赤紫に変色した肌は硬縮し、外気よりも冷たいのではないかと思うほどに冷え切っている。


 今まで解剖の手伝いで『見て』こそいたが、遺体に直接触れたのは初めてのことだった。その捏ねた粘土の表面のような、弾力のない質感に変わり果てた肌、生者とあまりに異なる肌の触感は、あまりにも生々しく『死』というもののなんたるかを訴えかけている。私は一瞬触れただけで、弾かれたように手を放し、針を落としてしまった。



「し、失礼いたしました!」



 落とした針を拾おうとするが、手が震え、細く小さな針はなかなかつまむことができない。



「おい、ヘカテー」



 気づくとしゃがみこんだ私の隣にヨハン様がいらして、私の手首を掴んで制止していた。



「大方、ケーターの罵倒に触発されて言い出したんだろうが……お前、死体に触れたことがなかったのだな」



 ヨハン様はうまく拾えない私の代わりに針を拾うと、そのままご自分の手の中に収めてしまった。



「嫌ならやめて構わない」


「いえ、大丈夫です。ヨハン様の前にもかかわらず失態を演じてしまい、申し訳ありませんでした」


「この程度、失態とは呼ばん」



 ヨハン様は針を返してくださらない。ただ、困ったように私を見つめている。



「遺体はオイレに処理させるつもりだ。教会に届けるわけではないから、縫い合わせなくとも問題ない。お前が予想外によくついてきてくれるものだから、この手のことを頼むことに慣れすぎてしまっていた。よく考えれば年端もいかぬ娘にやらせることではなかったな」



 ああ、なんということだろう。いつも鋭く輝いているはずのオリーブの瞳が今、私を見て明らかな哀しみを湛えている。


 私はこの方を失望させてしまったのだ。自分で言い出したことすら、きちんとできなかったばかりに。



「そんなことはございません。緊張で針を落としてしまいましたが、繕い物は得意なのです。もとより遺体を清めるのは女の役割です。どうか私にやらせていただけないでしょうか」


「ケーターはわざと喧嘩を吹っかけていた。それに乗ってしまったからと言ってやり遂げる必要はないぞ。無理をするな」


「お気遣いいただきありがとうございます。ですが、ケーターさんのせいで無理をしているわけではございません。これは私の意地なのです」



 主がここまで止めようとすることを、押し通すべきではない。せっかく気遣ってくださっているのに、反論すべきではない。そんなことは頭ではわかっている。しかし私にとって、ヨハン様に失望されるという恐怖は、使用人としてあるべき姿を保つことができないほどに耐えがたかった。



「ふん、意地とな?」


「私は解剖というこの学問が、この国の未来を変えるものだと信じております。今のこの国の医者たちは、本を読むばかりで人間の身体を詳しく調べようとしませんが、人間の身体を知らずして、人間の治療などできるわけがないと思います。私には、ヨハン様がこれから切り拓こうとしている異国の知恵によって、救われる命の増えたこの国の未来を見てみたいという夢ができました。だからこそ、こうしてお手伝いをさせていただけることを何より嬉しく、また誇りに思っております」


「それが死体の皮を縫い合わせることと何の関係がある?」


「私は昨日、死者への敬意を忘れたくないと申し上げました。それは、解剖の対象となった遺体が、そんな未来の医療の礎となるからです。この人の場合は、そこに本人の意思が介在していたわけではございませんが、この人の身体から得られた知識によって、今後多くの人が間接的に助かるはずです」


「死者への敬意の表し方は沢山ある。別に身体を十全に保つことのみではないぞ。教会は死者の身体を傷つけることを咎めるが、そもそも聖書の中で主はそのようなことを語ってはいない。モス・テウトニクスといって、遠方の死者はわざわざ骨のみに加工することもある」



 ヨハン様の口から、皮膚を縫うことを許すという言葉は出ない。だが、明確に否定するわけでもなかった。

 この方にきれいごとのみの言葉は通用しない。私がなぜカールさんの身体を復元することに固執するのか、正直に本音をお話しすることを待ってくださっているように思えた。



「おっしゃる通りです。無学な身ゆえ、その風習については初めて伺いましたが、敬意の表し方は一つではないと私は思います。ただ、この新しい医療を切り開くという道を進んでいくためには、今まで信じてきたことがどんなに揺るがされようとも、恐れず学び、事実を受け入れ続けなくてはいけないと思っております。ですが、私には大それた夢はあっても、それを実現するだけの頭の良さも心の強さもありません。私が今後、ヨハン様が成されようとしていくことに少しでもお役に立つには、彼らへの敬意を忘れないことだけでなく、そのために必要なことから逃げなかったという記憶が必要なのです」



 ここまで一気に話すと、少し息が上がってしまった。我ながら、主に対して言いたい放題で、無礼極まりない。普通の主であれば、このままクビにされてもおかしくないだろう。



「最近のお前は、ずいぶんよく喋るんだな」



 そう、ヨハン様は普通の主ではない。笑って針を返してくださった。



「確かに、切れば切るほどに見える世界もバラバラになっていくような道だ。お前がそう思うなら、その都度縫い合わせれば良い」

> もとより遺体を清めるのは女の役割

中世ヨーロッパでは、教会で葬儀を行う場合、遺体をきれいにする役割を街の女性たちが行っていたそうです。


3/15追記:

脳の解剖を省略することにしたため、少し文章調整しています。

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