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塔の医学録

 ベルンハルト様の声にはっとして目が覚める。いつの間にかベッドの中にいた。



「よかった! 目が覚めた!」



 見上げると、医療班の皆が覗き込んでいた。12の瞳には涙が浮かんでいる。左手を持ち上げてみると、きつく布がまかれていた。その下にはきっと蚯蚓の様な縫い痕があるのだろう。



「助けてくださって、ありがとうございます……」


「当然です。目が覚めなかったらどうしようと、本当に心配しました」



 私たちはしばらく話をした。ハンスさんが言うには、ヨハン様がどのくらいの血を必要としているのかも、私がどのくらいの血を流せるのかもわからなかったため、ふたりともが助かったのは奇跡だということだった。流石だと思ったのは、手順も大まかな血の量も、きちんと控えをとってあったということである。



「悲劇には、しなかったみてぇだな」



 遠くから声を掛けられて壁際をみやると、ケーターさんが微笑んでいた。褒めるでも諫めるでもないその一言が心地よい。


 ――翌日、起き上がれるようになって、ようやく私はヨハン様にお会いできることとなった。



「ヨハン様、ヘカテーでございます……」


「入れ」



 部屋に入ると、ヨハン様はベッドの上に上体を起こしていらした。



「お身体の調子はいかがでしょうか」


「問題ない……それよりお前だ。無茶をしおって」


「それは……ヨハン様には生きていただきたかったのです」


「感謝はしている。だが、俺だってお前には生きていてほしい。命を投げ出すような真似は、金輪際してくれるな。俺は……」



 ふいに、ヨハン様は顔を伏せられる。見れば、頬と耳が真っ赤に染まっていた。気を失われる前の言葉が頭の中にこだまする。心臓が早鐘を打った。しばしの沈黙。



「あ、あの……」



 私は何とかその沈黙を破る。



「スミレ、と申します」


「は?」


「私の、本当の名前です。母の瞳の色にちなんだもので、祖父の国の言葉で花の菫という意味だそうです」


「家族にしか言わないんじゃなかったのか?」


「ええ。でも、私たちはもう、血が繋がって(・・・・・・)いますから」


「それもそうか」


「菫の花言葉は『謙虚』……それから『真実の恋』です」



 オリーブの瞳がめいっぱい見開かれる。やがて頬が一層濃く薔薇色に染まり、ぎこちない微笑みが浮かんだ。その光景を幸せな気持ちで見つめつつも、遠慮がちに開いた唇が言葉を発する前に、私は続ける。



「……ですが、スミレという言葉にはもう一つ意味があります。トリカブトのことも指すのだそうです」


「トリカブトの花言葉は『騎士道』、司る女神は『ヘカテー』か。その方がよほどお前らしいな」


「ええ、私もそう思います。ですから私はきっと、ヨハン様のお傍にお仕えするために生まれてきたのです」



 私は真っ直ぐにヨハン様の瞳を見据えて、そう告げる。これが、今後のヨハン様との関係性について、私の出した答えだ。



「俺に仕えていても、女としての幸せは手に入らんぞ」


「恐れながら、私という女の幸せを、男性であるヨハン様がお決めになるのですか?」


「ははは、言ってくれるではないか。ならば……」



 ヨハン様はゆっくりと立ち上がり、その手に剣を取られた。



「跪け」



 驚きながらも跪くと、剣の先が私の両肩をとんとんと叩く。



「生涯俺の傍を離れるな。世の終わりまで共にいろ……『ヘカトス・ ヴェナトーリウス』、汝を騎士に叙任する」


「え……」



 ヨハン様は私の男性名に、上の名前を付け足された。ヴェナトーリウスはギリシア語で狩人(イェーガー)……



「ふん、どうした? 俺に仕えると決めたんだろう? ならば名前くらい呉れてやる」


「ですが……」



 ふいに、目の前の景色が何かに遮られ、ふわりと温かくなる。遅れて、自分がヨハン様の腕の中にいて、唇で唇を塞がれたのだということに気づいた。驚いて飛びのこうとするが、固く抱き留められて叶わない。耳元で、くく、と押し殺したような笑い声がした。



「ただ名前を与えただけではないぞ。今後の付き合い方についてお前が(・・・)出した答えはわかったが、俺が(・・)お前のことを諦めると思うな」



 恐る恐る見上げると、そこには初めてお会いした時の様な、悪辣さを感じさせる笑みがあった。再び口づけられて、ようやく解放される。



「さて。俺たちの間の血の移動は大成功だったわけだ。貴重な成功例として、お前がまとめている医学書に記載しておかねばならんな……そういえばあの医学書、題名は決まっているのか?」


「はい」



 私の初めての書物には、必ずあの場所の名前を入れると決めていた。私をヨハン様に出会わせ、ここまで育ててくれたあの場所の名を。



「『塔の医学録』です」



















ヨハン=アルブレヒト・フォン・イェーガー(Johann Albrecht von Jaeger)

 イェーガー方伯『悪魔公』ヨハン=アルブレヒトは13世紀の選帝侯、のちに皇帝。父親は皇帝エーベルハルト1世の対立王として知られる。

 公衆衛生と医療の整備、学校の設立などによって民に愛された。その治世は帝国史上最も学問が進んだ時代として、後の文化に多大な影響を与えた。


 この変わり者の君主は生涯独身であり、前半生についてもわかっていないことが多い。『悪魔公』の名の由来も不詳である。


 最も重用した臣下として、ヘカトス・ ヴェナトーリウスという騎士の名が残っている。彼は多くの医学書を著した功績でも知られ、そのすべてがラテン語と帝国公用語の両方で出版された。女と見紛うばかりの美貌で宮廷の夫人達に人気を博したが、伝承によれば実際に男装の麗人であったということである。

最後までお読みくださりありがとうございます!

途中お休み期間をいただいたりしたこともありましたが、最後まで書ききることができたのは読者の皆様のおかげです。心から感謝しております。


この作品は私にとって、自分の愛するものをこれでもかと詰め込んだ作品でした。叶うことなら永遠に書き続けていたいとすら思う作品が終わるのは、寂しくもあります……


これからも書くことは続けてまいります。

早速本日、新作『アンネリーゼの首縄』を公開いたしました。

https://ncode.syosetu.com/n6211gw/


舞台は13世紀ドイツの女子修道院。やはりか、本当好きだね、と笑いながら読みに来ていただけたら嬉しいです。


改めて、本当にありがとうございました!


※追記(2023/06/23)

読了済の方向けの番外編として短編集を公開しました。

二次創作のようなものですが、大丈夫な方はおまけとしてお楽しみください。

https://ncode.syosetu.com/n1257ih/

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― 新着の感想 ―
素晴らしいラスト!! 長い物語を飽きることなく読み進められ、最後にこんなに清々しく、納得のゆく気持ちになれる作品に出会えたことは久しぶりです!! しっかりとした時代考証や医療や文化の知識、当時の人々…
[一言] 面白かったです、良い物語をありがとうございました。
[良い点] 本当に素晴らしい物語でした。 いろんな気持ちが溢れてきて、うまくまとまりません。 願わくば、番外編などで少しでもその後の生活や活躍が見れたら嬉しいです。 こんな素晴らしい物語を、ありがとう…
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