異邦の病
イタリアを出て、私たちは相変わらずゆっくりと進む。ヨハン様も、ティッセン宮中伯軍を率いる宮中伯のご子息も、慎重な方針を打ち立てているらしい。徒歩の旅人よりも遅いのではないかという速度で進んでいった。
やがて、行き交う人々の様相が変化する。次第に増えていく、私と同じ黒い髪と瞳を持つ人々。ギリシアにやってきたのだ。太陽の光に照らされ艶めく彼らの健康的な小麦色の肌は、東に向けて遠出をしてきたということ以上に、はるか南にやってきたのだということを実感させる。立ち並ぶ家々の壁は目に痛いほど眩い白。景色全体が明るさを主張する。初めて目にするギリシアは驚きに満ちていた。こんなにも光にあふれた場所が、ガレノスやヒポクラテスを生んだのか。そしてこれが、私に流れる血の故郷の一つだというのか。
ケーターさんは、父はギリシアを目指したのだと言っていた。今、私は父と同じ空を見上げているのだろう。第二の故郷であるこの美しい東南の地で、どうか笑顔で過ごしていてほしい。行軍の最中に探すことなどできないが、何とも言えない感慨に浸りながら馬を進める。
そして、異常があらわれたのはギリシアをほとんど横断し、ハドリアノポリスに入ろうという頃のことだった。病が蔓延しだしたのだ。そのことが私たちの耳に入ったのは、かなりの大事になってからのことだった。もうすぐ百を数えるというその罹患者の数を聞いて、穏やかなハンスさんの口からすら舌打ちが漏れた。兵の間には病で軍医を頼るという習慣がない。
最初に不調を訴えだしたのは歩兵たちだったという。蔓延を防ぐため、後方に隔離しているというが、その数は増える一方なのだという。やがて、騎士たちの中にも同様の症状を訴えるものが表れだしたため、報告があがってきたということだ。
「どのような症状なのですか?」
「皆、頭痛と吐き気を訴えています。発熱し、手足が震え、中にはめまいを起こして倒れる者や、肌が赤くなっている者もいるようです」
私たちは顔を見合わせる。症状が思いのほか多く、聞いただけでは薬の選定が困難だ。
「直接見に行ってみるしかないか」
ラルフさんが呟き、報告しに来た従者について歩き出そうとする。すると、ハンスさんがそれに待ったをかけた。
「私たちは戦争の計画上の要の一つです。疫病の可能性がある以上、全員で行くわけにはいきません。特に、傷の治療に強い者は戦いが始まったときに活躍するためにも倒れるわけにいかないのです。ラルフ、歯抜き師であるあなたも病より傷の治療を得意とする者。今回は直接見に行くことを許すことはできません」
ハンスさんの言うとおりだった。私たちに期待されている役割は戦いが始まってからの傷の治療だ。床屋であるハンスさんとマルコさん、歯抜き師であるラルフさんは病に伏せるわけにはいかない。
「では、私とヘカトスさんで……」
「いえ、ここは、ヘカトスさんおひとりにお願いしましょう」
「なんですって!? 私ひとりの方がまだましでしょう、彼女はこの医療班になくてはならない……」
驚き声を上げるラースさんを、ハンスさんは片手で制した。
「なくてはならない存在なのは全員同じです。確かに私たちはヘカトスさんに頼りすぎているきらいがありますが、単純な役割で考えれば、専門性を持たないヘカトスさんよりも、ラースさんの薬の管理という役割の方が現時点では重要度が高いんですよ。それに、私はこの中で最も医学の知識が広いのはヘカトスさんだと思っています。それだけ、今回の病の原因を発見し、対処できる可能性も高いということです。ヘカトスさん、お願いできますか?」
「もちろんです。行ってまいります」
私はハンスさんの判断に内心感服しながら答えた。この人は、私情を挟まず、班長として医療班が最も効率的に動ける道筋を考えてくれている。
従者に連れられて、病を発症したという騎士のもとにいくと、彼は天幕の中で横たわり、情けなさそうに顔をゆがめていた。顔は赤く、呼吸が荒い。
「日ごろから十分に鍛えていたつもりだったのだが、病にやられるとは恥じ入るばかりだ。君のような少年の世話になってしまうとは情けない」
「病は鍛錬で防げるものではありません、お気になさらないでください」
「そうなのか?」
「例えば、剣で腕を切りつけたら血が出たからといって、お前は弱い、鍛錬が足りないから傷口から血が出るのだ、なんて言う人がありましょうか? 病もそれと同じことです。もちろん、生活習慣を見直したり、体を鍛えたりすることで体力を向上させ、ある程度病を防ぐことはできます。それは『予防』といってとても大切な概念です。しかし、体力の向上で防げる病には限度があります。病を得た時には、そのことを思い悩むことはおやめくださいませ」
ジブリールさんの受け売りだが、心の状態の悪さは病を悪化させることもある。まずは治療に専念してもらうことが重要だ……そう思って話をすると、彼は目を丸くして笑い出した。
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両親の謎も明かされ、推理要素は減ってきていますが、物語はラストスパートです。是非最後までお付き合いいただけましたら幸いです。
> ハドリアノポリス
通称アドリアノープル、現在で言うトルコのエディルネです。当時はビザンツ(東ローマ帝国)の領域でした。




