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目覚め

 ヨハン様の言動にはいつも驚かされる。悪魔だなんて最大級の侮辱を受けたにもかかわらず、怒るどころか愉快そうにしていらっしゃる。しかも、その侮辱を口にしたのは、裏切りの疑いが濃厚でありながらついさっき命を助けてやった、ご自分の配下だというのに。


 出会い方が出会い方だったので当然だが、もとは私もこの方を怖いと思っていた。しかし、塔に来てから、私は突拍子もないことにつきあわされこそすれ、何か嫌なことを言われたりされたりしたことはない。街へ父の安否を確認に行った時も、こっそりオイレさんを護衛につけて守ってくださっていた。


 クラウス様は「単に人付き合いが不器用な方」とおっしゃっていたが、私には、優しすぎるくらいに優しい方が無理に悪役を演じているように思えてならない。


 それがなぜなのかなど私には知る由もないが、ケーターさんは自分に対するヨハン様の寛大さを理解しているのだろうか。だとしたら、



「私だってケーターさんが嫌いです」



 つい口に出してしまうと、みんなの視線が私に集まった。



「だって、ヨハン様のお優しさに甘えて無礼なことばかり……」


「は? そこかよ、馬鹿女。しかもそこの生っ白い蛇男が『お優しい』とか頭がわいてるのか?」



 ケーターさんはにやにやと厭味ったらしい笑みを向けて口汚く罵り、オイレさんは唖然とした顔で私を眺めている。


 しかし、更に応戦しようと息を吸ったところで、不意に私の頭の上にぽすんと手が乗せられた。



「ヘカテー、その辺にしておけ」



 乗せられた手はヨハン様のものだった。慌てて頭を下げる。



「お見苦しいものをお見せしてしまい、大変失礼いたしました」


「俺は別に怒っていない。このアホ犬はさっさと俺の不興を買って殺されたいだけだ。わざわざお前が入ってくる問題ではないからつまらんことに使われるな」


「え、殺され……?」



 予想外の言葉に驚いていると、ヨハン様は付け加えた。



「こいつは本来、荒事専門の駒だからな。情報を盗んだり隠したりすることにはさほど長けていない。すると、普段から諜報を担当するオイレと、事件に関係しているらしいお前の両方がいる空間は、こいつにとって非常に都合が悪いのさ。それで尚秘密を守り切るには、できるだけ早く墓場に持っていくのが一番手っ取り早いということだ」



 ケーターさんは居心地悪そうに舌打ちをしてそっぽを向いている。どうやら図星らしい。わかりやすい人だ。


 もやもやは残るが、ヨハン様に窘められて言い募るわけにもいかないので、引き下がるかわりに睨み返しておいた。



「ケーターのことは放っておけ。作業を続けるぞ」



 引き続き内臓が取り分けられ、ヨハン様はそれを絵に写していく。私は言われるままにメモを取り、必要に応じて書庫から本や書類を持ってきて整合性を確かめる。そんな作業が続いた。


 喉から繋がる道は2種類ある。食べ物の通る道と、空気の通る道だ。食べ物の方は途中多くの器官を介し、その道のりは非常に長い。空気の方は肺という厚みのある翼のような器官に繋がるのみだ。



「食べ物と空気では、どのような効用の違いがあるのでしょうか。空気から(プネウマ)を得ているとのことですが、呼吸をするだけではお腹が空きますよね?」



 質問は許可されているので、話題変えついでに気になっていたことを口にしてみる。すると、意外にも答えてくれたのはヨハン様ではなくオイレさんだった。



「呼吸によって得られる力は瞬発的で、食事によって得られる力は持続的なんじゃないかなぁ? 僕ら大道芸人は、大技を繰り出すときなんかにわざと大きな呼吸をしてより大きな力を出すときがあるんだ。その代わり、呼吸は常にし続けなくちゃいけなくて、普通の人なら100、僕らでも300数える間くらいしか止められない。逆に、ご飯は食べたからといってすぐ力が沸くわけではないけど、数日食べなくても死ぬことはないよねぇ」


「確かにそうですね。あまり重労働には就きませんが、私も気合を入れるときには深呼吸をします」


「……と、思うのですが、いかがでしょうか? 医学書には通じておらず、私見に過ぎませんので、間違いがございましたらご指摘ください」



 私にはいつもの砕けた口調で答えてくれていたオイレさんは、ヨハン様に向き直ると先ほどまでの丁寧な口調に戻った。オイレさんも自由な質問を許されているようだ。



「いや、オイレの言う通りだろう。ヒポクラテスによれば、食べ物が体内で更に調理された結果が血液になり、これが生命の維持にかかわるのだという。また、ガレノスによれば肝臓で血液に作り替えられ、栄養として消費されるというな。つまり、一度血液への変換という過程を経る分、力を取り入れるのに時間がかかるのかもしれない」


「調理、でございますか。それでは取り入れるのに必要な過程が多いのも頷けますね」


「ただ、肺で取り入れられたプネウマが心臓で生命精気に、脳で精神精気に変じると言うが……食事で得られる精気については、あまり詳しく記された文献はないのだ。相変わらずわからないことだらけだな」



 ヨハン様は手が血で汚れているのも構わず、髪をかき上げてため息を漏らした。その姿を眺めながら、私は以前ヨハン様が語ってくださった幼少期からの夢を思った。


 東方の発展した医療を我が国に取り入れるという夢。それを実現するためには、まずヨハン様ご自身が何よりその知識に通じなくてはならない。改めてその夢を思うと、なんと膨大な時間のかかる道のりだろうか。



「……まぁ、いつだって本に書けることなど限りがあるものだ。ヒポクラテスやガレノスといった偉人でさえも、その知識のすべてを残すことなどできてはいまい。そもそも彼らの時代から千年以上の時がたっている。レヴァントやサラセンの者たちが発展させた知恵も知らなくてはならないし、それでもわからぬ部分は俺たちが調べて補完していくしかないだろうよ」



 その膨大な時間のかかる作業を、この方はこともなげに「やるしかない」とおっしゃる。塔の中で行動も時間も拘束されながら、どうしてこの方はこんなにも壮大な夢を見続けることができるのだろう。


 今まで解剖の手伝いについて、使用人として与えられた仕事を全うすることとしか考えていなかったはずの私は、この時、ひとつの夢を抱いてしまった。ヨハン様が見ていらっしゃる世界を、ほんの少しだけでも見ることができたら良いのにという、自分には随分似つかわしくないような夢を。

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