猛毒の愛
「姫君は呆然と彼を眺めた。自分を心から案じる者が、こんなにも近くにいようとは思ってもみなかったのだ。恋も知らずに嫁いできて、家のために戦い続けた姫君は、この時、目の前の下級騎士に心の全てが奪われるのを感じた。しかし、それでも彼を信じるのは簡単なことではなかった。だから姫君は彼を試そうとした」
「試す……? いったい何を……?」
「彼の自分を想う心をさ」
祖父は微笑んだ。それは、懐かしげとも寂しげともとれるような、なんとも弱弱しい笑みだった。
「姫君は彼に一夜の契りを望んだ。そして、驚く彼にそっと唇を寄せて告げたのだ。『あなたが本当にあたくしを救いたいと願うのなら、このままその腕にあたくしを抱いて、今まで築いた地位も名誉も、何もかも捨てるか、黙って毒薬を渡すかのふたつにひとつよ。あなたはあたくしのために全てを捨てることができる? できないのなら、軽々しく優しさを向けるのはやめにして、さっさとこの場を去りなさい』……彼女がどんな答えを望んだのかはわからない。どちらもできないという返答を聞いて彼に失望したかったのかもしれんし、口だけで何もかも捨てるといって自分から逃げてほしかったのかもしれん。だが、不幸なことに、彼女が問いかけた相手は本当にすべてを捨てることができてしまえる人間だったのだ」
「姫君本人も叶えるつもりのなかった希望を、彼は過大な誠実さで叶えてしまった、と」
「いいや、それは違う。今だからこそ私は言おう。彼は姫君の気持ちに誠実さで応えたのではない。なぜなら、婦人の愛に愛以外で応えることがどれだけ不実なことか、彼はわかっていたはずだからな。つまり、いつからかはわからないが、彼の中にもまた、密やかな愛の火は燃えていたのだよ」
私は父がたった一度だけ母について語った言葉を思い出していた。『聡明で、高潔で、誰よりも美しい人』……確かに、そんな言葉は心から愛していなければ出てこないだろう。
「故に、彼は姫君の願いを受け入れた。『あなた様が生きてくださるのなら、私は持てるすべてを捨てましょう。しかし、私があなた様をこの腕に抱くのは、決して憐れみ故ではございません。どうかお許しください。私はあなた様を、心からお慕い申し上げておりました』」
主の妻との過ちという最大の不義。いつだったか、ヨハン様が父について、その忠誠は最初から別の誰かに向けられたように思えてならないとおっしゃっていた。きっとそれが彼女……ティッセン宮中伯夫人だったのだ。
「そうして、姫君は彼との子を身ごもった。ここでも、やはり彼女の狡猾さは常軌を逸していた。十月もの間、赤子を身ごもっていることを隠し通すなんて真似は、彼女でなければできなかっただろう」
きっとそれは、婦人服の流行の主導者であったことが関係しているのだろうが……同時に、夫婦の間の契りがなかったことも示していると考えると、少し悲しいところもある。
「子が生まれると、姫君は彼に、故郷の言葉で名前をつけるように頼んだ。彼がギリシア語で名づけようとすると、ギリシア人とは時たま会うこともあるから、あなたの血を示すもう一つの国の言葉が良いと言った。彼はその言葉を解さなかったので困ったものの、父親が発した言葉のひとつを覚えていたので、それをつけた。『父が、あなた様の瞳の色を「スミレ」と申しておりました。いつか見た、絶望に染まった瞳ではなく、喜びを浮かべた今のその瞳こそ美しい。どうかその色を瞳に絶やさないでいてくださいませ』とな」
「……二人は、子の誕生を喜んでいたのですね」
「もちろんだとも。彼にとっては地位も名誉もすべて捨ててでも手に入れたかった愛、そして姫君にとっては最愛の彼その人を失ってでも手に入れたかった愛の証だ」
私の存在が、ふたりの愛の証。私は未だ見ぬ母を思い、不思議な気持ちでその言葉を聞いた。
「だがな、このことによって彼に降りかかる困難は生易しいものではなかった……彼は何も知らずにスミレと名づけたが、ソウの国では菫とはトリカブトのことだ。なんとも皮肉な名前よ」
祖父は不機嫌そうに鼻を鳴らす。何も言えない。確かにこれは、猛毒の愛だ。
「姫君は彼に、赤子を連れて遠く北の地を目指すように命じた。そこには、彼女の実家とつながりの深い家がある。万が一の時、頼れると踏んだのだろう」
実家そのものよりも、実家と政治的に深い結びつきのある家を選ぶ。そこに彼女の知恵がまた表れていた。実家を頼るにはことの経緯を明かすことが前提になるのに対し、繋がりのある家では隠すことが前提になる。婚外子である可能性を考慮して手出しはできないものの、本当にそうなのかを問い合わせれば家の繋がりに亀裂が入るという厄介な存在だからだ。
「でも、それで守れるのは私だけ……父は守られることはないのに……」
「私? 父? 何を言っている、これはただの物語だぞ。さて、少し長く話しすぎたな。今日はここまでだ。そろそろ俺は戻る」
そう言い残して祖父はティッセン宮中伯軍へと帰っていった。




