二つの涙
「自らの……命を……」
私はあまりに予想外の展開に息を吞んだ。手中にあるはずの自らの城が、自殺という大罪を犯してまで逃げ出したい場所になっていたというのか。
「ああ。あるいは、本当は実際に命を絶つ気が有ったわけではなくて、それが彼女の命がけの悲鳴だったのかもしれん……彼女は、秘密裏に件の下級騎士を呼び出した。彼に命じて、毒薬を持ってこさせようとしたのだ。夫に使うものではないことは神に懸けて誓うから、用途は聞かずに持ってきてくれ、とな。実際、その頼みごとをするのには妥当な人選であっただろうよ。彼は元々薬を扱う遍歴商人の家の出だったわけであるし、何より彼ほど忠実で信頼に足る人間というのもいない」
最も忠実な者が主君の命を絶つ手伝いをさせられるとは、いつの世も運命とは皮肉なものだ、と祖父は小声でつぶやいた。
「ですが、その頼みを彼は断った……?」
でなければ、私が存在しているはずがないのだから。
「その通りだ。彼は答えた。『是非その薬を使う相手の名をお聞かせください。あなた様がお望みなら、政治的な企みでも私怨による復讐でもかまわない。毒になど頼らずとも、私がこの剣で斬り殺してごらんに入れましょう。あなた様がその美しい手を汚される必要はありません。しかし今、あなた様の瞳は欲望ではなく絶望に染まっています。ご自身にお使いになるおつもりではないとはっきり聞くまで、私は決してそのご命令に従うことはできません』……姫君は誰の名も口にすることなく押し黙り、大粒の涙が次から次へとその瞳から零れた。その姿を見て、彼は続けた。『私はいつでもあなた様を案じております。私はあなた様をお守りしたいのです。あなた様をお守りするためならば、どのような困難にも身を投じましょう。血でも肉でも、喜んで差し出しましょう。ですが、あなた様を傷つけるためには、私はどんな小さな一歩であろうと踏み出したくはございません。無力な身ではございますが、もしも抱えきれぬ荷があるのなら、どうかここで下ろしてはいただけませんか』」
その言葉はどれだけ響いたことだろう。誰もが彼女に荷を背負わせるばかりで、共に背負おうとするものなどどこにもいなかったのだから……そう、私は思ったのだが。
「残念なことにその言葉は、孤独に戦い続けた姫君にかけるにはいささか遅すぎた。彼女は彼をなじった。『あなたはあたくしが嫁いで来る前からこの家に仕えていた。あたくしのこともずっと傍で見てきたはずよ。今まで皆と一緒に私の心を無視してきた癖に、なぜ今になってそんな慈愛に満ちた言葉など掛けるの。たかが一人の下級騎士があたくしのためにできることなど何もない。実を結ばない優しさがどれほど残酷なものかわからないの?』……彼女は泣きながらひたすら彼をぶった。彼は彼で、ひたすらぶたれ続けた」
確かに、過ぎた優しさは時として毒となる。二つの家の行く末を一人で背負う苦しみを下級騎士に訴えたとしても、事態は何も変わらない。
「姫君が殴り疲れて手を止めた時、ようやく彼は口を開いた。『こうすることで少しでもお心が晴れるのなら、いくらでも打ちのめしてください』……姫君は、まだそうやって優しい言葉を、と怒りながら彼の顎をつかんで顔を上げさせた。するとその顔を見て彼女はたじろぐ羽目になった。誰よりも強いと謳われた下級騎士の漆黒の瞳からは、静かに一筋の涙が流れ出ていたのだ」
「え……」
それはもちろんぶたれた痛みによるものではない。彼は、私の父は、自らの痛みのために涙を流すような人ではない。彼が涙を流すとしたら、それは……いつだって他人のためだ。
「彼は涙を拭うこともなく言った。『あなた様のお苦しみを知りながら、今までお声を掛けることができなかったこと、心よりお詫び申し上げます。信じてはいただけないかもしれませんが、私はこれまでもずっとあなた様のことを案じておりました。先ほどの言葉も、政治的な意味で力になることはできなくても、せめてお心の内を聞くことで、その苦しみを分かち合うことはできないかと思って申し上げたのです』……そう、ただの下級騎士に過ぎない彼は、宮中伯に呼ばれて話すことはあっても、姫君と二人きりになる機会などなかったのだ。姫君が自ら彼を呼ばない限り、どんなにその身を案じていても」
至極当然のことだった。どんなに心からその身を案じていようと、主の妻と二人きりになるなど、騎士の鑑たる彼にはあり得ないことだっただろう。そして、夫人の苦しみは宮中伯の前では決して口にできないもの。彼はその誠実さゆえに、夫人の心がぼろぼろになっていくのをただ眺めることしかできなかったのだ。




