戦争の季節
ヘカテーにしろヴィオラにしろ、名前が女性名では不都合があるので、私は新たに「ヘカトス」という男性名を名乗ることにした。無論、ギリシアから来た少年という建前である。出自について問われることもないだろうが、話題になったらキリロスさんの話でもしておけば良い。黒髪や黒い目、異邦の血を濃く映した風貌が、こんなところで役に立つとは。
行軍は帝都を経由し、ティッセン宮中伯の軍と合流するそうだ。
私たちは、全部で三つに分けられる隊のうち、第二隊先頭付近の中央に配置された。指揮命令系統の乱れを懸念されたヨハン様の命により、もともといた軍医とは別の扱いで、主に傷の治療を担当することとなる。非戦闘時は皆平服ではあるが、騎士やそのほかの騎兵に囲まれて、一般市民の私たちは随分と目立った。
軍医がたくさんいるということに対しては、配下を気遣うヨハン様の器の大きさを称える声が聞こえてくる。2000余りの軍全体を対応するには心もとない人数だが、それでも異例の数の軍医を投入したことは、ヨハン様のお優しさととらえられたようだ。同時に、口にはしないものの、初めての戦争で勝手がわかっていないのだと侮る向きもあるようだった。いずれにせよ、私たちは「ヨハン様が迎え入れた者たち」という看板を背負っている。下手を打ってその名誉に傷をつけないよう注意しなければならない。自然と背筋が伸び、適度な緊張感を保って進んだ。
追いかけるときの旅よりも、軍勢ははるかにゆっくりと進んでいく。まだ道行きは序盤も序盤、私たちは飢えも経験していない。今はまだ安心して進むことができる段階だ。補給部隊の兵站には食糧も潤沢で、商人たちもついてきており、いつでも街に立ち寄れる。しかし、いずれ食糧は尽きて現地調達となり、国外へ出ればついて回る商人もいなくなる。敵地に入れば脅威を知らしめるための戦略の一環として騎馬略奪行も行われるだろうが、その頃には兵の疲弊もかなり大きなものになっているだろう。つまり、時間が進むにつれ、疲労が積もるほどに環境は厳しさを増すのだ。現状与えられている環境が最も良い状況であり、ここから先、行軍の負担は加速的に上がっていくことを覚悟しなくてはならない。
「ヴィ……ヘカトスさん、辛くありませんか?」
だからこそ、私はハンスさんに何気なくかけられた言葉にこう返す。
「いいえ、大丈夫です」
本当は、馬に乗り続けているせいで腰が痛み、内腿が引き攣っている……その辛さを私は無視する。耐えるために、肉体から霊魂を引き離すように念じて、自分の身体を単なる観察対象として見る。ああ、使う機会が少なければ少ないほど筋肉は衰えるのだな、とだけ思うことにしておく。サラセンに至るころには、多少は鍛えられ筋肉もついていることだろう。
「なら良いのですが、急いで追いかけた後の初めての行軍です、あまり無理をなさらずに……」
そこで、横からラルフさんが割って入ってきた。ラルフさんは私の顔をしばらくじっと見つめると、ため息を漏らした。
「強がるのも良いが、必要な無理と無茶は別だ。気を張りすぎるな。でないと心ってのはぽっきり折れる」
「ご忠告、ありがとうございます……」
「俺たちの出番は戦地についてからだ。その時に働けなくてはどうしようもないんだぞ。班長はハンスだが、あんたが俺たちの要であることにかわりはないんだ」
この二人が長でよかった、としみじみ思う。気遣いのあるハンスさんは困った時にもすぐ気づいてくれそうだし、ラルフさんの叱咤激励は心に響く。ラースさんとマルコさんもついて行きやすいだろう。
道すがら、刈り入れの時期を迎えた麦畑の黄金をよく見る。補給のため、収穫を農民に代わって兵士たちが行うことも少なくない。春は戦争の季節だ。野原の緑は濃く、花々が道を彩り、鳥たちは穏やかに歌う美しいこの時期に、人々は武器をとって血を流し、殺し合うのだ。それでも、ここまでの大遠征を何年にもわたって繰り返したことが、帝国の歴史上、未だかつてあったのだろうか。聖地奪還は特殊な戦争だと改めて思う。




