引っ越し
私がうなずいたのを確認すると、ヨハン様は手近な羊皮紙とペンを手に取り、さらさらと伝言を書き始められた。曰く、
-------------------------------------------------------
・本日食事を届けに来たヴィオラという者を、自分専属のメイドとしたい。
・名前も自分が新たに『ヘカテー』と名付けた。
・3階の部屋が空いているから、準備ができ次第そこに住み込みにしてほしい。食事もそこで取らせる。
・毎日の食事運びと御用聞きも彼女にやらせるので、今日から当番は必要ない
・大きな音のするベルと、3種類以上の針と糸、ダガーを1本を持ってきてほしい
-------------------------------------------------------
ということだった。書かれた文字は上品で迷いがなく、美しく整っている。噂に聞く残虐さ、初めて見た時の恐ろしさ、若干の神経質さ、さっき笑った時のあどけなさのどれともそぐわない。さらに、結局持ってきた料理も私が食べて構わないという。なんだかちぐはぐな印象の方だと思った。
さて、この伝言を持ち帰ると、当然ながら居館は大騒ぎである。下級の使用人たちには「あんたまさか色目でも使ったの!?」「あのヨハン様相手に? 度胸あるねぇ」などと散々な言われようだった。もう少し上の人たちは、これで当面は犠牲者が出なさそうだと安心した様子。執事や侍女といった高位の方々は困惑しているようだ。
しばらくすると、家令のヴォルフ様から人払いされた部屋に呼ばれた。
「ヘカテー、まずはご子息付きへの昇進、本当におめでとう。そして、ずいぶんと珍しい名前だが……新しい名前もつけていただけて良かったね」
「はい、ありがとうございます」
「ヨハン様が女性を側に置きたいと言ったのは初めてだ。おそらく君の個性的な容姿に惹かれたのだろう。少し意地の悪い言い方になるが、身の振り方はよく考えて行動しなさい。早く飽きられる可能性もあれば、愛妾になれる可能性もあるのだから」
これは予想外だった。しかし経緯を知らないヴォルフ様からすると、ただのメイドが目に留まる理由としては一番妥当なのだろう。
そして、ヴォルフ様は目を伏せると、深刻な面持ちで話を続けた。
「閨に招かれることもあると思うが、決して無理はするんじゃないぞ。あの方は非常に難しいお方だ。お前の身に何かあれば、皆が悲しむだけでなく、この家の将来にも悪いこととなる。その辺りも肝に銘じて、しっかりとお仕えしなさい」
そういえば一人目の犠牲者は女性だった。さすがに失礼千万ゆえに明確に言葉にこそしないものの、ヨハン様が悪い癖のために私を呼んだかもしれないと思われているのは明白だ。件の噂を考えると、ご所望の「針と糸、ダガーを一本」も若干不穏な響きがないではない。
しかし私は、ヨハン様が私をそういった遊びのために呼んだとは、なんとなく思えなかった。私の容姿はよく好奇の目に晒されるため、10代に入ってからは特に、男性の嫌な視線にはすぐ気づく。たった四半刻ほどお話ししただけだったが、独特の薄暗さと粘っこさを持ったあの視線を、あの方は一度も投げかけてこなかったのだ。
「かしこまりました。ご忠告、ありがとうございます」
ヴォルフ様は難しい顔をしたまま、頭を下げた私の肩をぽんぽんと優しくたたいておっしゃった。
「引っ越し完了のご報告には私も一緒に伺おう。これからは一人きりで不安かもしれないが、業務で気になることはこちらにいるうちに聞いておくように」
私の引っ越しは、翌日の夕食をお持ちするときになった。
荷造り自体は簡単だった。もともと私物なんてほとんどなかったし、北の塔まで運ぶのにもこのお城へ来た時の袋一つで十分足りる。
しかし、自分の荷造りが終わった後の方が、意外と時間がかかってしまった。
まず、大急ぎでお部屋の管理に関する仕事を教わらなければならない。とはいえ、先輩たちは自分の仕事だけで余裕はなく、急に指導の時間をとることなどできないので、そばについて必死で控えを取り、わからないところだけ口頭で説明してもらった。
居館よりは遥かに仕事量が少ないという点では、狭い塔にこもり切りという異色の役回りはありがたかったといえる。
それから、服がいくらか支給された。流行遅れでくたっともしていたが、侍女の皆様のお古なので、元は奥様がお持ちだったもの。当然ながら私が普段目にすることのないような上等品だ。
さらに、風呂にも入れてもらえ、髪や肌もしっかりと整えた。それだけで自分の印象がおおきく様変わりしたことに驚いたが、家政婦長曰く初回の身なりは結構重要らしい。とはいえ、すでに1度お会いしているから関係ないような気がするが。
矢のように時間が過ぎていき、いよいよ塔へ向かう。私はお食事のかごで両手がいっぱいになってしまうため、荷物は明日以降徐々に運び込むことにした。
今回はヴォルフ様も一緒に来てくださっている。家令という使用人で最高位のお立場にある方が、一介のメイドの引っ越しに同行するなど、はっきり言って異常事態である。しかし、それだけ私の身を案じてくださっているのかもしれない。昨日お話をしたときも思ったが、とてもお優しいお方だ。
塔を上がり、ヨハン様の私室の前に来ると、ヴォルフ様も背筋をただされた。若干緊張した面持ちでいらっしゃるのが見て取れる。
「ヴォルフです。ヘカテーをお連れいたしました。それからご夕食と、ご所望のものも」
「ああ、入ってくれ」
私達が入室すると、ヨハン様は少し驚いたように目を瞬かせた。
「荷物は数日かけて運ばせますが、ヘカテーは本日から下の部屋に住まわせます」
「本日からお部屋のお世話をさせていただきます。よろしくお願いいたします」
「わかった。ヴォルフも、わざわざ送り届けに来てくれるとは、ご苦労だったな」
そういってお二人は少し話をし始めた。私はこれ以上発言の許される立場ではないので、話を耳に入れないように注意しながら食事の支度ををする。
とはいえ、会話は事務的かつ簡潔なもので、私が配膳を終えるころには完了しているようだった。
「ヴォルフ、此度は迅速な対応感謝する。他の者たちにもよろしく伝えてくれ。下がってよいぞ。ただし、ヘカテーはそのままそこで待機せよ」
ヴォルフ様が一礼して出ていったのを見届けると、ヨハン様は食卓につき、少し姿勢を崩される。
「きちんと並べられた食事を見るのは久しぶりだ。やはり良いものだな」
しかし、並べた食事には手を付けず、私の方を見やると目を細められた。
「俺の言葉足らずで、ヴォルフ達には少々誤解をさせてしまったようだ。さすがにお前のような子供に食指は動かんから安心しろ。でもまぁ、なんだ、なかなかいいじゃないか。服で雰囲気は変わるものだな。随分とらしくなったぞ」
「勿体なきお言葉にございます。本日より私はヨハン様専属のメイドです。不束者ではございますが、ご厚情に感謝し、誠意をもってお仕えいたしますので、もし何かお役に立てることがあればどんな些細なことでもお気軽におっしゃってください」
「ああ、では早速頼もうか」
ヨハン様はスープを手に取りながら、その艶良い唇に、悪辣さを感じさせる恐い笑みを浮かべられた。
「昨日最初にした質問に返事がなかったな。答えろ。お前は何者だ?」
使用人の上位層は、中級以下の貴族の子弟が勤めていました。ニュアンス的には「使用人」というより「家臣」というべき存在です。したがって、これらの貴族出身の者たちと、労働者階級から雇われる下級使用人の間には明確な差があります。
一番地位が高いのは「家令」で、領地管理を行う者と城内管理を行う者の2名がいます。ただし本作では区別を明確化するため、後年の慣例に従い後者を「執事」と呼称します。
財務や部屋の管理を行うのは侍従です。女性は、侍女・家政婦長が地位が高く、その他のメイド(女中)たちと区別されていました。