余話:置き去り
シュピネ視点です。
ばちん、と薄暗い部屋に音が響く。突然訪ねてきた馬鹿犬は、ばつが悪そうにため息をひとつ。あたしの渾身の一発はその片頬を僅かに赤く染めるだけで、目を覚まさせるにはとても足りないようだった。
「あんたが行くのは勝手よ。仕事仲間として、何も聞かなかったふりくらいしてあげる。でも武器の持ち方すら知らない女の子を連れて行く? 気でも違ったの!?」
「戦いやしぇねよ。どこに連れて行ったってあいつは身の振り方くらいわかる頭を持ってる。それに、あいつの方が本題だ。俺が追いかけたいわけじゃねぇ」
「でもけしかけたのはあんたでしょう? ヘカテーちゃんはいい子よ、自分の気持ちのためにあんたを呼んだりしない。あんたがわざわざ塔を訪ねたんだわ」
「それはそうだが、俺はどうするつもりなのか訊いただけだ。追いかけろとは」
「言ってなくても同じことよ!」
肩で息をしながら、丸くて大きな二つの黒い目を思い浮かべる。いかにも利発そうで、それでいてずる賢さはなく、どこまでも純粋な輝きを湛える瞳……そこにはいつもたったひとりの姿しか映っていない。計算など微塵もない、見ていて戸惑うほどの巨大な愛の塊。わがままは決して言わないけれど、ひとたび手掛かりを与えられたら、自分の希望を叶えつつ自分が役に立つための最適解を導き出してしまう。その結果命を失うことも厭わずに。
「……死ぬかもしれないのよ」
あたしは、恋を知らない。もちろん、理想の恋人でいることも、優しく愛を囁くこともいくらでもできる。でもそれは相手の求める言葉や表情を熟知しているというだけで、中身を伴わない空っぽのもの。
これが恋なのかもしれない、と思ったことはある。あたしをメイドとして召し抱えたあの人は、他の男のような薄っぺらな褒め言葉を浴びせなかった。代わりにしたのは政治の話。ただのメイド、楽しく遊べばいいだけの愛人に、宮廷での駆け引きをひたすら聞かせた。氷像のような顔に笑顔を浮かばせたくて、あたしは難しい話に必死でついていった。
そしたら、初めて心底嬉しそうな顔を見せた次の朝、あの人は突然あたしを息子に下げ渡した。それからあたしは、恋することをやめた。
だから、こんなにも真っ直ぐひとりの人を思い続けることのできるあの子のことが、少し羨ましくもある。そして羨ましいと思うからこそ、その価値が誰よりもわかるの。あの子は決して、失ってはいけない。
「託されたんでしょう? それであんたは師に顔向けできるの?」
「守る。できなきゃ俺も死ぬだけだ」
その返答に、あたしはただ唇を噛み締める。どいつもこいつも、安々と自らの死を口にする。
「どうした、お前だって同じだろう? いつも命懸けで仕事をしてるだろうが。自分の命と大切なものを天秤にかけて」
ふいに投げられた言葉が胸に突き刺さり、声を失った。
「あいつの気持ちも俺の気持ちも、わからないお前じゃねぇよな」
後輩の癖に、諭すような声で馬鹿犬が言う。同時に、自分の中の子供っぽい感情が黒くとぐろを巻くのを感じた。
「心配なのは、傍にいたいのは、お前も同じだもんな」
畳みかける、ひどく優しい物言いに、苛立ちが募る。騙し合いも読み合いもしない、戦うだけの駒。どんなに頭を働かせて正面から説得しようとしても、専門職のあたしには勝てないはずの不器用な犬が投げかけてきた言葉は、攻撃性を持たないだけに、躱すことができない。
「……なんでみんな、あたしを置いていくのよ」
引き出されるようにして唇から零れ出た言葉に自分で驚く。別に、自分が寂しいからあの子が去っていくのを引き留めたいわけじゃない。あの子には自由でいてほしい。でも、男に交じって戦地に赴くというあの子の選択は、どうしようもなくあたしを置き去りにされた気分にさせていた。
「お前も連れて行ってやろうか?」
半笑いで紡ぎだされた提案に、一瞬、心がぐらつく。思わず肯定しようとして口を噤んだ。あの子と違って、あたしには選択肢がない。戦えない、治療もできないあたしが戦場に行っても足手まといになるだけ。
……それに、あたしが行っても別に喜ばれない。その事実をこの目で確認するのは嫌。そのくせ命を賭して守られるのはもっと嫌。
「ここでやるべき仕事もあるの。あたしにはあたしの役割があるのよ。ついて行くわけないじゃない」
「ついていく、か。俺たちが向かうのは、認めてくれるんだな」
答えてやらない。頷いてもやらない。意地になっているあたしを見て、馬鹿犬は満足そうに目を細めて背を向ける。
「……安心しろ、死にゃしねぇよ。帰ってきたら抱きしめてやれ」
去り際の言葉の意味を考えて、再び苛立ちがあたしを襲う。もちろん、黒髪の女の子だったら、いくらでも抱きしめてあげるわ。




