戦え
ケーターさんはすこし悪い顔で笑う。そうか、だから廊下を避けたのか。命令が出ていないのに勝手に動くことも、ヨハン様を追いかけて与えられた持ち場を離れることも、不服従行動だ。かつて父と私のために命を張ってくれたこの人は、またしても私のために危険を冒そうとしてくれている。もとは傭兵で、今は隠密という身分ではあるが、その心はまごうことなき騎士のものだ。父が全力で教えたという騎士道精神は、この人の中で確かに息づいている。
「本当に……ありがとうございます……」
「気にするこたねぇよ。俺はラッテたちと違って、基本的にヨハン様から実行命令があって初めて動く。レーレハウゼンに置いていかれたところで仕事がねぇんだ。だから、お前を送り届けるためにここを離れてもイェーガーのお家に影響しない。それに正直、これは俺の希望でもあるしな」
「希望、ですか?」
「ああ。ったく、親子二代で似たようなことしやがる……俺は、ヤタロウさんの幸せを信じたいんだよ。だからお前には、主との恋が悲劇に終わらないということを証明してほしい。結ばれろとまではいわねぇが、引き裂かれたまま終わるようなことがあっちゃたまらないのさ」
愛にあふれたぼやき。父は、自分がここまで慕われているとわかっていたのだろうか。もしわかっていたら、この人をおいていきはしなかったのではないだろうか。
しかし、と私は思う。本当にこのままただついていくだけで良いとは到底思えない。私には多少の判断力はあるようだが、戦術についての知識は皆無だ。お傍に控え、ヨハン様のことを眺めるくらいしかすることがない状態では、ヨハン様は私を受け入れこそすれ、その行動を良しとはなさらないだろう。
私にできること、私にある技能。それは医学と薬の知識を提供することくらいだ。
軍医の価値は低い。たいていの行軍では床屋がひとりついていく程度だ。これは、致命傷ばかりが発生する戦場において、治療が有効な場合がそもそも少ないからと言える。
しかし、それは一般的な床屋の場合だ。私がヨハン様やジブリールさんと共に学んできた医学であれば、救える場合も多いのではないか? 東方やサラセンの医学、祖父の薬学を駆使すれば、軍医がきちんと機能することもあり得るかもしれない。
もしそうなら……私は、ついていくべきだ。ついていって、軍医の補佐にあたり、一人でも多くの人を救うべきだ。戦争の勝敗は残った兵の数によっても大きく左右される。兵を失わずに済めば、より勝利に近づける。
「ケーターさん、是非、私を連れて行ってください」
「おう」
そこでさらに考える。ロベルト修道士様は、「一人で解決できない問題でも、一人でなければ解決できる」とおっしゃった。それが手がかりだとも。
軍医の補佐をしようとしても、見知らぬ女の言うことなど聞いてもらえるはずがない。私の医学が高度なものであることを示すどころか、医学を学んだと証明することすら難しい。一対一では、口から出まかせの偽治療はやめろと言い負かされて終わりだろう。
では、一対多数なら? 治療を行う手だって多い方が良いに決まっているのだ。軍医がたくさんいたって良いではないか。奇しくも今日は勉強会の日。8人もいれば、ついてきてくれる人もいるかもしれない。勉強会の面々で、専門の医療班を編成しよう。休憩所ではなく、本当に傷を治療できる診療所を設置しよう。武器ではなく知識で戦うのだ。脱臼も、深い傷も、私たちなら治療することができるのだから。
「出発が二日遅れても、追いつけますか?」
「遠征の行軍は消耗を避けるためゆっくり進む。二日程度の時間差なら、お前が耐えられれば、追いつくの自体はさほど難しくねぇよ」
「私以外にも人が増えそうなのですが……」
「答えは一緒だ。そいつらが耐えられれば問題はねぇ」
「行軍の道筋はわかるのですか?」
「俺を誰だと思っていやがる、イェーガーの隠密だぞ? 情報取集は専門じゃねぇが、行軍の予想くらいは立てられる」
頼もしい言葉の数々に、思わず頬が綻ぶ。
「では、私一人ではなく、医学の知識のある皆で戦地に赴き、医療班を編成したいと思います。そうすれば、ただお傍にいるだけでなく、きちんとヨハン様のお役に立つことができるでしょう。今日の勉強会で皆に話して、ついていく人を募ります。明日のお昼あたりに、また迎えにきていただけますか?」
「お安い御用だ」
ケーターさんは私の話をいぶかしがるでもなく、笑って受け入れてくれた。そして、どこか遠くで、修道士様も笑ってくれた気がした。
ここまでお読みくださりありがとうございます!
今年は『塔の医学録』を読みに来てくださり、誠にありがとうございました。年始の時点では、自分がまた小説を書くことになるとは思っていませんでしたし、それがこんなに長くとは夢にも思いませんでした。気づけば128万PVを突破。多くの方に読んでいただけて、本当に幸せです!
物語は収束の方向ですが、まだ続きます。最後までお付き合いいただけましたら幸いです。
良いお年をお迎えください!
1/4追記:翌日出発としていましたが、当時は金曜日に旅に出ることを避ける風習があったので、翌々日にしました。




