手引き
ついに答えが出ないまま、ヨハン様はお城を出ていかれてしまった。これでよかったのだろうか。お薬だけで、私にできることは本当に足りたのだろうか。ロベルト修道士様とのお話は妙に現実感があって、居眠りをした間に見た夢と断じることが私にはできなかったが……考えても考えても、薬づくり以上の答えはでなかったのだ。
もしかすると、ヨハン様のご希望通り、医学書の原稿をお渡しするべきだったのかもしれない。あそこには豊富な治療法が記されている。何か事故があったとき、原稿を参考に治療することができたのかもしれない。だが、後悔したところで、もうヨハン様にお渡しする機会はない。無事のご帰還を祈る以上のことは、私にはできそうにない。
そんな、陰鬱に堂々巡りする思考を打ち破ったのは、扉の叩かれる音だった。
「ヘカテー、いるか? 俺だ、ケーターだ」
意外な声の主。ヨハン様から何かお言付けでもあったのだろうか。扉を開けると、ケーターさんは顔を背け、どこかばつが悪そうに頬をぼりぼりと掻いている。
「お久しぶりです。何か、あったんですか?」
「いや、個人的な用だ。とりあえず入れてくれよ、廊下は声が響く……あ、気にするようだったら調理場でもいい」
ケーターさんのことは信頼しているので、今更部屋に二人になったところで怯える訳もないのだが、この人は意外と潔癖というか、こういうことを気にかけてくれる。
「いえいえ、もちろんここで大丈夫ですよ」
扉を閉めると、ケーターさんは少し周囲の様子を窺うように見回したのち、鋭い目で私を見据えた。
「お前、ここに残されることに納得はしてんのか?」
「え……」
投げかけられた問いは、私の意思を問うもの。
「……頭になかったって顔だな。まぁ、女のお前にこんなことを思う方がおかしかったって話か」
「待ってください、詳しく聞かせていただけませんか?」
踵を返そうとするケーターさんの腕を引っ張る。
「今の言葉は……私はヨハン様についていく、つまり一緒に戦争に行くことを望まなかったのか、という意味ですよね?」
ケーターさんは、少しだけ目を見開いて、再びこちらに向き直ってくれた。
「心でどんなに願っても、そんな選択肢があると思いもしませんでした。なぜ、ケーターさんはわざわざこの塔まで来て、私にそんなことを聞いてくれるのですか?」
「……俺は、10年も人生を棒に振った。そのことを後悔しちゃいねぇが、無理にでもついていかなかったことは後悔してるんだ」
「それは、父のことでしょうか……」
「ああ」
ケーターさんは、父の弟子だった。父のもとで騎士になるだけの実力を得て……父が私を連れて逃げる前に、下級騎士になるための口添えもしておいたというのに、何もかも捨てて逃げた父を追いかけた。父のもとにたどり着くのに10年もの歳月を費やした。そして、再会の機会を、父を国外に逃がすためだけに使ってくれた人だ。これ以上の献身があるだろうか。
しかし、そんな彼が、最初から父についていかなかったことを今でも悔いているというのだ。衝撃的だった。
「ヤタロウさんはお前のことを愛している。あの人ははっきりそうは言わなかったけどな……俺は、お前のことを託されたと、勝手にそう思っている。だから聞くんだ。俺はヤタロウさんの娘であるお前に、俺と同じ後悔をしてほしくねぇんだよ。お前は本当に、この塔に閉じ込められているだけの身分で満足なのか? ヨハン様についていきたいんじゃねぇのか?」
こげ茶色の瞳に、戸惑うばかりの自分の顔が、はっきりと映っている。
「ヨハン様についていって、何ができるでしょう……」
「それはてめぇで考えろ。でも、別に何もできなくたって悪く扱われることはないと思うぜ? ヨハン様はお前を気に入っているし、邪魔さえしなきゃ何だってこともねぇだろうよ」
「でも……お荷物が増えては……」
「もちろん、ついていったところで先に待っているのは戦争だ。ここでおとなしくしている方がいいって考えもあるだろう。お前が納得しているなら、その方が俺としても安心なんだぜ? ただ、俺にはお前がそういうやつに思えなかったってだけの話だ。今の言い方もひっかかるしな。周りの迷惑とか、どうするべきとかは一旦置いといて、自分がどうしたいかを考えてみろ。自分の気持ちを無視するんじゃねぇよ」
自分が、どうしたいか。それがわがままな願いでも……よいのだろうか。
「私の思いを聞いて、どうするんです?」
「俺は他の連中とは違う。忠誠を誓う相手は、未だにヤタロウさんだと思っている。ヨハン様に盲目的に従う気はねぇんだ。だから……お前が望むなら、手助けしてやるよ」




