素養
昨日は失礼いたしました。いつもお読みくださり本当にありがとうございます!
私は急いで4階に向かい、ジブリールさんの部屋の扉を叩く。あまり間を置かずに戻ってきた私を見て彼は驚いたようだったが、快く迎え入れ、隠密を呼び出す合図のことを説明すると、鉛でできたカップを取り出してきてくれた。
隠密を呼ぶ合図は本来、鳥笛でこちらに気づかせてから炎の色を見せる。しかし私たちは鳥笛を持っていないので、ジブリールさんの提案で、松明は屋上に出しっぱなしにしておくことにした。こうしておけば、紫の光など簡単に出せるものではないので、時間はかかれどそのうち気が付いてくれるだろう。それまでの間、私は医学書の執筆に取り組んでいればよい。ジブリールさんは、せっかくだからと、一日早いが推敲に付き合ってくれた。
すると、信じられないほどほど早く、梯子のかかる音がした。ふたりで顔を見合わせて耳を澄ますと、しばらくして階下から響いてきたのは男の人の声だった。
「ヘカテーさん、ビョルンです。何かありましたか?」
「ビョルンさん?」
慌てて扉を開ける。
「屋上にシュピネを呼ぶ紫の炎が見えたので、何かお困りごとなのではということで様子を見に来ました。大丈夫ですか?」
「それは失礼しました、勝手なことをしてしまって……」
よく考えれば、屋上に置いたら居館からも見える。無断で隠密を呼ぼうとしていることに驚かれたヨハン様が、事情を聞きにビョルンさんを寄越してくださったようだ。
せっかくなので、ネーベルが動いたことと、例のよそ者たちの件を報告する。
「……なるほど、それは確かにシュピネの方が詳しそうですね」
ビョルンさんは状況を把握すると、持ってきていた鳥笛を吹いた。ビョルンさんも、接触の情報だけをヨハン様にお持ちするよりも、気がかりなことを晴らしておいた方がよいと判断したということか。
「そういえば……侍従をされているということは、ビョルンさんは貴族のお生まれなのですよね。隠密として活動することに、抵抗はなかったのですか?」
「ああ……ここだけのお話ですけど、実は私はただの貿易商の息子なんです。貴族の方々の相手をする父から、読み書きや礼儀作法は叩きこまれましたが、こうして侍従として重用していただいているのはご領主様のおかげですね。それに、ベルンハルト様はお優しい方でしたから、不出来な私のことも気にせず傍においてくださいました。といってもまぁ、クラウス様の眼が怖かったのが、侍従としての成長には何より効きましたけどね! あの方、口調は穏やかですけど、仕事については本当に厳しいんですよ」
ビョルンさんは明るく笑う。貴族出身故に、情報を使う側としての能力を買われているのかと思ったが、そうではなかったらしい。
「人の素養とは、不思議なものですね……」
思わず呟いた私に、ビョルンさんはきょとんと首を傾げた。
「そうですか? 適材適所、ご領主様とヨハン様の人を見る目が優れているだけのことですよ。さて、シュピネが来るまで、結構かかると思うので、私はこれで失礼しますね。ヨハン様には大枠はお伝えしておきますが、よそ者の件が確認出来たら報告のお手紙を出してください。シュピネに預ければなんとかして渡してくれますよ」
再びふたりになった部屋で、私たちは黙々と、推敲と執筆を続けた。そろそろ、冊子を出せるくらいの量はたまってきているように思う。街の人々に皆の価値が見直されてきている今なら、もし再び写本を作って出回らせることになれば、勉強会の人数も増えたりするのだろうか。遠い将来には、レーレハウゼンが医学の都として有名になる日も来るかもしれない。ヨハン様の夢を自分の手で後押ししているのだと思うと、決して手を抜くことは出来ない作業だ。それはジブリールさんも同じ気持ちでいるのだろう。どんなに丁寧に書いたつもりでも、推敲でほぼ丸ごと書き直しになることもある。勉強会の講義より中身が濃くなっていることも多いので、出来上がったら皆に見せると喜ぶだろう。医師に見せることを考えれば、そのうちラテン語に翻訳しても良いかもしれない。
そうこうするうちに、再び梯子のかかる音がした。私はジブリールさんに中断の旨を告げ、階段に出る。ほどなくして、凛とした表情のシュピネさんが姿を現した。
「あら、ヘカテーちゃん! 気配がないけど、ヨハン様は4階?」
「シュピネさん、すみません、今日は私の用事でお呼びしたんです」
「あら、そういうことだったのね。思い当たることがなかったから、新しい任務かと思ってたわ」
金髪の美しい女性。しかし、にっこりとかわいらしい笑みを浮かべながらも、当たり前のように調理場の人の気配を測っているあたり、やはり優秀な隠密としての素養がある、頼りになる人だ。
「ちょっとお伺いしたいのですが……最近、よそ者が増えているというお話は本当ですか?」




