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心の薬

 それから私は、ヤープからネーベルが見知らぬ人物と接触したとの連絡が入るのを待っている。とはいえ、そもそも帝国税の導入自体が年単位で動く話だ。ネーベルも、隠密の集会の場で横領の計画の話を聞きこそしたが、具体的に何かが動き出したという報告を受けているわけでもない。ネーベルは優秀な隠密だ。決定的な証拠になりうる何かをつかむまでは、動くこともないだろう。そう考えると、少し見張らせるのが早すぎたかもしれない、とも思うが、可能性が少しでもある以上は放っておくわけにもいかない。ヨハン様がお止めにならないということはこれでいいのだろう。


 そうすると、この件で私がやるべきことはもう特にないので、医学書の執筆に戻ることになるが……推敲作業の最中、ジブリールさんに指摘された。



『珍しく誤字脱字があります。どうかしましたか?』



 いつも通り、私の書いた文章への補足や習性が書き込まれていく中、その最後に付け足された言葉で、いまいち身が入りきらないでいた、自分の集中力のなさに思い至る。どう返答したものかと考えていると、ジブリールさんは紙の束を閉じ、にっこりと笑ってこう言った。



「Ας κάνουμε ένα διάλειμμα.(休憩しましょう)」



 曰く、学問とはしっかり頭が働いていてこそ時間をかける意味があるもので、集中力に欠いているときには無理に取り組んでも、余計に効率が落ちるだけなので意味がないとのこと。それならば、いったん手を止める勇気が必要だと。休みを取ることに対し「勇気」という言葉が用いられることには少し驚いたが、医学に打ち込み道を切り開き続けてきた彼からすると、立ち止まることに対する恐怖のようなものもあるのかもしれない……彼が立ち止まった分だけ、その国の医学が止まってしまうのだから。ヨハン様同様、この人もとんでもない重荷を負い続けている。


 休憩用に焼き菓子(レープクーヘン)を用意すると、ジブリールさんは笑顔のまま、無言で私の両目を見つめ、小首を傾げる。私が言葉を発するのを待っているようだった。


 ヨハン様が政治に巻き込まないようにと注意を払っているジブリールさんに、つい思い悩んでしまう理由を話すのは気が引けたが、かいつまんで経緯を説明してみた。捕えていた皇帝の隠密を、信用に足らないのを承知の上でイェーガーの隠密として取り立てたこと、その隠密をわざと裏切らせるべく画策していること、いつ動くかわからないのでついそわそわしていたこと。それらを、彼は何度もうんうんと頷きながら聞いてくれた。


 そして、答えて言うには、やはりジブリールさんの目から見ても私の対応で間違いはないらしい。長期戦になるのであれば、必要に応じて見張りの隠密を変えるくらいで、あとは接触の情報を待つだけなので、もう私の手は離れたと考えてよい。


 ただ、気になってしまう気持ちもわかると言ってくれた。その理由は、私が無意識に考えていることにあるとも。



「Σκέφτεστε τι να κάνετε αν δεν προδώσει;(彼が裏切らなかった場合どうするか、考えありますか?)」


「あ……」



 そう、今までのことは、すべてネーベルが必ず裏切るという前提のもとに動いていた。もし、帝国税が導入されても何の動きもなければ、皇帝の教会とのつながりにひびを入れるという計画は水の泡になる。後ろ盾を崩すには、皇帝にイェーガー方伯を脱税の疑いで糾弾するという行動をとってもらわないといけないのだから。


 しかし、ジブリールさんは私の心配を否定した。ネーベルは呼び水に過ぎない。皇帝は裏切りがなくとも同じ行動に出るだろう。何故ならば、彼は謀略に長けた人物であり、もとより糾弾するつもりで横領の余地を残している。こじつけで濡れ衣を着せてでも、火のないところに煙を立てようとするだろう。疎ましく思っているイェーガー方伯にその矛先を向けないはずがない。むしろ、一番最初に切り込んでくるはずだ。



「Ανησυχείτε ακόμα;(まだ心配していますか?)」


「Οχι. Ευχαριστώ.(いいえ、ありがとうございます)」



 こうした無意識の問題を解決することは、人々の精神の健康のために非常に重要なことらしい。注意力散漫やふさぎこんでしまうなどの憂鬱症の症状は、その症状そのものを薬で抑えることもできるが、抱えている問題を分析して解決に導いていくことで全快することもあるそうだ。もちろん、理論としてわかっても実践は非常に難しい。本人も意識していない問題を顕在化させるには、相手を注意深く観察しながら、適切な質問を選び取っていかねばならないのだから。



「Ο διάλογος είναι ένα από τα καλύτερα φάρμακα.(対話は最高の薬の一つなのですよ)」



 あらゆる薬や治療法に通じているジブリールさんが言うからこその説得力が、その言葉にはあった。

いつもお読みくださりありがとうございます! ブックマークやご評価、ご感想にも感謝です。


心理学が確立したのは19世紀後半と言われています。この考え方は、しっかりしたカウンセリングの発想というよりも、ジブリールの医療に対する哲学のようなものとして解釈していただければと思います。

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