敵か味方か
それにしても昨日はひどい一日だった。せっかくいただいた休暇も1日で終わってしまったし、父のことは結局わからずじまい。地階に囚われているというケーターさんは何か知っているのかもしれないが、オイレさんは彼がわざと捕まったようなことを言っていたので、あまり期待できない気がする。
塔にいても仕事の量は相変わらずなので、気を紛らわせるように時間をつぶすとなると、私は性懲りもなく「体部の有用性」に手が伸びるようになっていた。
正直に言うと、ギリシア語の勉強は楽しいのが半分、怖いのが半分だ。父が使っていた言語を通して、今まで感じる必要のなかった、自分が何者なのかという疑問とどうしても目を合わせることになってしまうから。
元は祖父のものだったというあの不思議な本のことも気になる。今まで「父がお守りみたいに持っている変な本」という認識でしかなかったものだが、薬学の本だったとは。今なら余白に書き込まれたギリシア語も読めるようになっているだろう。ヨハン様から本を返していただいたら、書かれていることからまた自分のルーツに触れることになるのかもしれない。
とはいえ、本を返していただく頃には、きっとヨハン様たちが今起きていることについて突き止め、あらゆる事態が終息した後なのだろう。オイレさんは「余計なことは考えずに守られていたほうがいい」と言った。あれはきっと警告だと思う。私のうかがい知れないところで、何か大きなことが動いている。首を突っ込む余地などない。
右も左もわからぬままに、自分勝手な心配で動いてしまってもきっと邪魔なだけだ。たとえそれが自分の父親の生死にかかわることであろうとも。そう、頭では理解している。だからこそ、今の私にできることは、メイドとして任せられた仕事と、空いた時間を勉強で埋めることの2つしかない。
それでも、一介の商人の娘が高度な勉強の機会をいただき、しかも女の身でありながら医学に触れられることを、少し誇りに思ってしまう程度には、私の感覚は少し世間とずれているようだ。
すると、ふいに扉が叩かれた。
「はい」
「もぉ! 君はどんだけ危機感がないの? 不用意に開けちゃ駄目でしょ?」
扉を開けると、オイレさんが腕組みして立っていた。自分が戸を叩いておきながらひどい言いようだ。
「この塔で私の部屋の扉を叩くなんてヨハン様くらいだと思いましたから……もしそうならお待たせするわけにいきませんし……」
「ヨハン様がわざわざメイドさんの部屋に来るわけないじゃない。変な奴だったらどうするの?」
わざとらしく怒って見せるオイレさんは、自分が十分「変な奴」に見えていることに気づいているのだろうか。
「今度から、相手が誰かわかるまで扉は開けないこと! いいね?」
「わかりました……」
「とりあえず、ヨハン様がお部屋で待ってるから行くよぉ」
そこで私ははたと気が付いた。
「そういえば、ヨハン様のお部屋っていつも鍵かかってないですよね。不用心なのでは?」
「あぁ、うん。もしあの方が誰かに狙われるとなったら、鍵とかあんまり意味ないからねぇ」
「あ……私ったら縁起でもないこと……」
「大丈夫大丈夫! そんな不届き者は僕たちが返り討ちにするからぁ!」
普段塔の中に人の気配は感じないが、隠密たちはいつもそばに控えているのだろうか。それに、僕たちというからには、オイレさんとケーターさん以外にもいるのかもしれない。あえて訊こうとは思わないが、ヨハン様と隠密にはやはり謎は多い。
お部屋の前まで来ると、珍しく声をかける前に扉が開かれた。
「二人ともちょうどよかった。やっと仕事が片付いたところだ」
招き入れられた私たちは一礼して入室し、お側に控える。
「まずは今回のことだが、ヘカテーを呼んだのは他でもない。お前の父親の件が今回の仕事に少しかかわっているようだったからだ。仔細の説明はオイレから頼む」
「承知いたしました。まずはご領主様の指令についてからご報告申し上げます。今回のヨハン様への依頼は、教会派としてまとまっていたリッチュル辺境伯とティッセン宮中伯の癒着を引きはがすこと。両者を対立関係に持っていくため、溝鼠、蜘蛛、そして駄犬の3名が派遣されました。しかし、途中でケーターが自己判断で一時離脱。作戦の進行に問題はなかったものの、離脱中にティッセン宮中伯陣営との任務にない接触があった模様です。その後作戦に復帰しましたが、単独行動が目立ち、ヨハン様より離脱命令が下されたのが3日前。そして、例の紙の投げ入れを行ったことを帰還時に本人が認めております」
「だそうだ。さて、ヘカテー。今度はお前に訊こう」
話についていけない私に構わず、ヨハン様は一旦部屋の奥に向かうと、何かを引きずってきて、どさり、と私の前に投げ出された。
「この男を知っているか?」
大きな荷物だと思ったそれは、傷だらけで縄に縛られた男性だった。ヨハン様は手ずから彼の口に噛ませていた縄を外し、髪の毛を引っ張り上げて私に顔をお見せになる。痛々しい姿に思わず息をのむが、その顔はいくら眺めても一切見覚えはない。
「申し訳ございません、存じ上げません」
何度もじろじろ眺めてから答える私を見て、ヨハン様は彼から手を離された。少し安心したような顔をしていらっしゃる。
「どうやらこいつもお前を見るのは初めてのようだな。改めて紹介するが、この男が先日話したケーターだ」




